十字架を見た
先日の日曜日は、家族(父と奥様と子供二人、と僕)で教会に行きました。と言っても、父の送迎のためです。簡単に説明しますと、父は少し前まで牧師をしており、この日は、50周年記念のイベントに招待されました。しかし、実家からは若干、距離があるので、父が運転に不安を覚えたため、送迎をすることにしました。これは、先日書いた、僕から父への「感謝」です。兄の家族が通っている教会なので、娘たちは、従妹と遊ぶことを楽しみにしていました。子供のころ(といっても小学生まで)、家族で通っていたので、顔見知りが何人かいました。名前はほとんど分かりません。父が紹介してくれるので、「あぁ、○○さん。お久しぶりです。」という感じでお互いを認識していました。こちらからは積極的に話しかけませんでしたが、教会の人々は、ボーっとしていると、すかさず、声をかけてきます。その柔軟さに、正直、感嘆しました。コミュニティとして、どうありたいのか、という意思を感じられる行動です。同じ信仰を持った人々なので、やはり志向性が同じというか、ベクトルが同じか、とても近い集団なのでしょうね。ゆえに、みなさんの行動が似ているな、と感じた次第です。決して、悪い意味ではありません。自分には無い部分ですね。一般的には、社交辞令と言われるような「交わり」ですが、とても品があります。しかし、どうやったら話題がそんなにポンポン浮かび上がるのでしょう。不思議ですね。女性の会話というのは、途切れることなく、常に音が聞こえます。どこでブレスを入れているのでしょうね。過呼吸、或いは酸欠にならないのか、やや心配です。僕は人の話しを聞いても、あまり意見は言わないようにしています。同調するような返答になりがちですが、それが一番楽です。というのは、これまでの経験から、自分が無理して話すのは、なんというか、品がないな、と考えるようになりました。このブログで散々、あーだこーだと書いていますが、会話と文章では全く異なります。そもそも、文章を書くときは、相手がいませんし。敢えて言うなら、自分の中にいる誰かが、相手をしてくれます。文章を考えて、入力していると、「そこはもう少し盛り上げたほうがいいんじゃない?」とか、「そんな事を書いても、誰も理解できないって。」とか、言いたい放題の校閲者(?)がいます。しかも、肝心の誤字脱字については、チェックが甘く、公開した後に、誤字脱字を発見すること多数。ここ1か月で、2日に1回は何かしら修正をしています。もう少し詰めを辛くしなければ、と、しきりに自戒していますが、デフォルトの部分なんでしょうか、あまり変わりはなく、元気でやっています。年賀状などで、相手の体調を気遣う文は常套句ですが、いつも、「他に言いたいことは無いのか」とツッコまれたらどうしよう、とヒヤヒヤしています。ええっと、教会の話でした。その教会は、ドイツ人の宣教師がやってきて、ドイツからの献金などで建てたそうで、素直に「すごいな、クリスチャン。」と思いました。仮に、土地や建築費用を1千万円としましょう。ドイツのクリスチャン1人あたり千円を寄付したとしましょう。1万人から献金があった、ということになります。見知らぬ外国の教会を建てるために、また、布教活動のために、これだけの活動が行われるというのは、すごいエネルギィですよね。他の宗教も同じようなものでしょうか。僕は正直、休日は独りでいたいので、自らコミュニティ活動に参加する事はありませんが、今回のように、たまに参加すると、人との触れ合いが新鮮だと感じます。ですから、相手の意見は出来る限り、理解しようと努めます。取り入れるかどうかは、その時に判断する必要はありません。ただ、考え方の違いを知ることで、自分にプラスになる部分がある、と思います。先人は、このような時、最も自分と遠い分野や、相反する考え方の人と議論することが大きな学びであると仰ってます。少しずつ、そういう交わりが持てるように、自分自身を孤独から外へと解放していく必要があるのかもしれません(これはあくまで僕の話しです)。ただし、まだ一人で学ぶことも多々あります。足元が少しでも固まるように、日々鍛錬ですね。

この写真は、タスマニアのロスという町にあった教会です。2009年4月8日に撮影しました。ロスには、「魔女の宅急便」に出てくるパン屋さんのモデルと言われる店があります。それは、明日にでもご紹介しましょうか。建築様式はよく判りませんが、日本ではお目にかかれない造りですね。レンガですし。でも、素敵ですね。日本が地震大国でなければ、こういう建築物も見れるのに、と嘆いても仕方ありませんが、キリスト教の建物やステンドグラス、パイプオルガンその他諸々のアイテムや音楽は、とても好きです。好きな時に教会に行って、お祈りをする、というスタイルでOKならば、或いはクリスチャンになったかもしれません。現在の日本のようなスタイル(例えば毎週日曜日に礼拝がある)でしたら、今後も信仰を持つことはないだろうな、と考えています。おっと、初めて2千文字オーバーしました。では、これにて。