
問答は有用である
その隣の部屋では公教要理のお話が始まっているらしい、大きな子供と修道女との問答。
「神とは、どのようなお方でありますか?」
「はい、神とは、天地万物をつくり、またこれをつかさどりたもう限りなく完全な霊であります」
「すると、その霊とはなんでありますか?」
ちがった女の子の声で、
「はい、霊とは五感には感じられないが、知恵と意思とをそなえたものであります」
「神は人の事を特別におはからいになりますか?」
「はい、神は人の生命・健康・衣食住を初め、霊魂と肉身とにかかわるすべてのことを特別におはからいになります。これを神の摂理と申します」
「そうですね、すべての世の中の出来事は、盲目的な運命によらず、神の摂理によって導かれるものであります」
「それでは、神は人のことを特別におはからいになるのに、なぜ禍(わざわい)をお除きになりませんの?」と子供が聞いている。
「禍は試練となり、罪のつぐないとなり、戒めとなり後の世の幸福のもとになるからであります」
「なぜ禍が後の世の幸福となりますの?」孤児の問いは切実である。
「――わがために人々なんじらをのろい、かつ迫害し、かつ偽りて、なんじらに就きてあらゆる悪声を放たんとき、なんじらさいわいなるかな、歓び踊れ、そは天におけるなんじらの報い甚だ多かるべければなり。――これは有名なイエズスの山上の説教のおしまいの言葉です。さいわいなるかな、歓び踊れ!天国のごほうびはどんなに大きいでしょう」
中央出版社 「この子を残して」 永井 隆 著
私たちの生活が、何によって支えられているのか。万事感謝の気持ちをもって臨みたいものです。自問自答ではなく、神に問うてみこころを知ることが、道であるのでしょう。
――心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる。――
箴言3:5、6
聖書 新改訳2017