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オーバフローした言葉たち
毎日、言葉を捻り出すという行為をしていても、不思議と、尽きる事がありません。これは、他の人でも同じだと思います。記録に残らない言葉たちは、消えていくばかりです。それでも、次から次へと言葉を吐き捨てます。同じことを繰り返して話す事もあるでしょうし、言葉にならない部分もあるかもしれませんが、何故、これほどに考えるのでしょうね。「僕は思う、だから僕はここにいる。」といったらパクリになりますが、ここにいるのは、本当に僕なのか。意思とは何なのか。死とは?無とは?宇宙は生まれたのか?何から?最初にゆらいだのは、何なのか?そのゆらいだ「モノ」は、宇宙ではないのか?インフレーション?どこからそんなエネルギィが生まれたのか?宇宙の持つエネルギィの総和と等価なのか?こんなことを考えると、それこそ果てしなく飛んで行ってしまいます。それが楽しいのですが、余りにも現実と乖離していて、時々、嫌になります。戻ってきたくない、という心境が生まれて、ついつい逃げ出したくなります。しかし、生活を続けるためには、働く必要があるので、嫌々ながらも仕事に向かいます。会社に着いてしまえば、もうやるしかないので、後は苦になりません。朝、目覚める時は、布団から出てしまえば、目覚めます。アラームが鳴って、すぐに「ヨッコイショ!」と起き上がるのが、最も目覚めが良いと最近知りました。これは、自分の身体がそうであって、他人がどうなのか知る由もありません。家族の中では、一番目覚めが良いですね。子供も奥様も、朝は苦手みたいです。小さい頃はどうだったかな、と考えてみましたが、記憶にありませんので、それほど起きるのに抵抗は無かったのではないか、と思いましたが、よくよく考えてみると、母親に、朝起こされていた記憶がよみがえってきました。小学生の低学年の頃は、朝ごはんとして、目玉焼きだけとか、卵焼き1切れだけを食べていました。それから、3年生くらいからコーヒー牛乳を飲んでいましたね。いつも、母が目の前で美味しそうに飲んでいるのをみて「僕も飲みたい」とお願いしたのだと思います。たっぷりの牛乳と砂糖を適当に混ぜて、飲んだら、美味しかったのでしょうね。それから毎日、続けて飲むようになったと記憶しています。ブラックコーヒーにしたのは、中学生くらいだったかな。ブラックコーヒーを飲むようになると、缶コーヒーは全く別の飲み物として認識するようになります。あの甘さが、コーヒーというよりは、ジュースと言った方が的確だと思います。最近はカフェオレ、カプチーノという名前で商品化されていて、それらは違和感がありません。しかし、甘い缶コーヒーの品名を「コーヒー」とするよりも、「コーヒージュース」とした方がよろしいのではないでしょうか。真剣に抗議をしたい訳ではありませんが、若干、納得のいかない名前ではあります。コーヒーゼリーや、コーヒーガムは、問題ありません。むしろ、よくぞここまで味を再現できたものだ、と上から目線で褒めてあげたいくらいです。幼少期の味の記憶って、あまり残っていないですね。特に給食。苦手だったのは、酢豚で、それはよく覚えています。味とは関係ありませんが、牛乳が紙パックではなくて、ビンでした。冬季は、ストーブが教室に置かれていたので、その上に鍋を置いてお湯を沸かし、牛乳のビンを入れてホットミルクにして飲んでいました。何を食べたか、というよりも、どういう環境で食べたか、というイメージが残っています。その頃は、物覚えが良かったのですね。我ながら、不思議なくらい、記憶力が衰えているようです。だから、ついつい同じような話を書いてしまいそうになるのですね。今日もまとまりの無い文章でしたが、捻り出したというよりは、言葉の詰まったコップを揺らして、溢れ出た言葉たちが、ここに記されているだけかもしれません。そのコップをどうやって揺らすかによって、溢れ方も変わってくることでしょう。ちなみに、今日はゆっくりと攪拌された模様です。明日は、少し早くコップを回してみましょうか。どうなることやら。
溢れ出る清水