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導かれて3千メートル
今日は日曜日。教会に行ってきました。午前10時頃から聖書の勉強会みたいなクラスがあって、先ずはそれに参加。その時は、ふむふむなるほど、と満足げに納得してみたりするのですが、 後で思い出そうとすると、今日のお話は、何だっけ?となります。いけませんね・・・その後の礼拝では、信徒の行動について、考えさせられる説教を聞けました。その教会の牧師はとてもユーモアに溢れていて、時折ジョークを飛ばすのですが、僕はかなりツボです。一人でクスクス笑ってしまうのですが、内容はとても真面目な話ですから、あまり大きな声を出せません。罪深いジョークですね、と喉まで出かかってきますが、それを口に出すのはさすがに憚られます。教会に行く目的は、信仰について考えるため、というよりは、自分が何を感じて、どうしたいのかを探るためです。そこに答えがあるという期待はありませんが、もしかしたら、僕に足りないものが得られるのかもしれない、という予感はあります。あまり一般的な感覚ではないのでしょうけれど、多才な人々が集い、歌い、祈り、まさに多彩です。その光景は神聖そのものだと思います。子供の頃から、その輪の中に入る事よりも、その礼拝の様子を見ていることが好きでした。この感覚は他の時でも同じかもしれません。会社の飲み会などでは、盛り上がっている集団の輪に入る事よりも、遠いところから眺めているほうが、好きです。賑やかな場所よりも、静かな場所に身を置きたいという欲求があるためでしょう。自動車を運転する時は、音楽は消します。奥様と共用の自動車に乗ると、まずはオーディオの電源を切ります。乗り終わった後も電源は切ったままですが、次に乗る時には、またオーディオの電源を奥様が入れます。つまり、イタチごっこをしているのですね。お互い一歩も譲らぬ主張は、こんな小さい事で展開されているのです。不思議ですね。愛があれば、どちらかが譲るのでしょうけれど。