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徒然な言葉遊び
日本語には、面白い言葉や、慣用句が沢山あります。何が面白いのかというと、音が面白いと感じます。幾つか並べてみましょう。あっけらかん、お茶の子さいさい、うっとり、おちゃらかほい、目からウロコ、棚からぼた餅、馬の耳に念仏、坊主が憎けりゃ袈裟まで憎い、てんてこ舞い、などなど、探せばもっと出てくると思います。それらは、勉強の過程で学んだものというよりも、それ以外から情報を得たものが多いのではないか、と思います。自分の記憶を辿ってみましたが、さすがにどの場面で聞いたか、ということは覚えていません。年上の会話から学んだり、テレビの番組やラジオで聴いたり、書籍やマンガで読んだりして覚えたものでしょう。人間の興味深い部分として、言葉を覚えると同時に、それがどのような場面で使われるか、という情報も付随して覚えるようです。無意識のうちに、情報を整理する機能が備わっているのですね。その機能のおかげで、さまざまな人との会話が可能になってくるのでしょう。言語の習得で、会話をした方が早く覚えられる、という説もありますが、単語だけで覚えるよりも、どのように使われるか、ネイティブから聴いて覚えたほうが理解が進む、という論理だと思われます。それはそれで正しいのかもしれません。個人的には、「音」を聞き分けることが、他言語習得の肝というか、必要条件だと感じます。というのは、日本では英語を習います(僕も一応、少しだけ英語は勉強しました)が、その過程で単語を聞き分けることが難しい、逆に言えば、それさえ出来れば、後は単語の意味を変換するだけ、という結論に至ったからです。しかし、母国語の日本語でさえ、たまに理解できない単語があります。そういう時は、前後の文の雰囲気で予想することになります。これは、仕事上では危険な行為ですので、分からないときは、聞き直した方が、安全です。自分の身を守る事にも繋がりますし。この聞きなおす、という行為に、いささかの抵抗を感じる場合があります。会話の流れを遮ることになりますし、相手が上司や、話しにくい人(はっきり言って、嫌いな人)だと、なおさらです。僕は、自覚症状として、軽い難聴があります。ですから、会話で聞き取りにくい事が頻繁にあります。電話だと、さらに顕著になります。決して、相手の滑舌が悪いわけではなく、明らかに僕の耳が悪い、というのは、複数人の会話で気付きました。同じ環境下で、僕だけ聞き取れないという場面が何回もあったからです。これには、本当に困りますが、困っても仕方ないので、「まぁ、いっか。」で済ませてしまうわけです。音楽を聴いている時でも、歌詞を聞き取ることができません。しかし、音の流れは、(正確かどうかは別として)聞き分けることができます。ですから、メロディは覚えますが、歌詞は「ふんふふん~」となります。それでも困った事はありませんので、良しとしましょう。さて、言葉には、たいてい語源があり、それを知らずに使っているものがほとんどだと思います。例えば、先に挙げた言葉の中に、「あっけらかん」がありますが、これは調べてみると、口をぽかんと開けている状態を示す言葉が時代と共に変化して、最終的にあっけらかんとなったそうです。「お茶の子さいさい」は、お茶菓子の事で、簡単に食べられる事から、簡単にできるという喩えになったといいます。本当でしょうか。最近のお茶菓子は、厳重に、しかも開封するのが憚られるような、お洒落な包みが成されており、それを開けて食べるのにも一苦労です。「おちゃらかほい」は俗語のようですね。あまり面白い語源ではないので、内容は記しません。「目からウロコが落ちる」は、意外や意外、聖書からの言葉です。キリストを迫害していた男が失明したのですが、キリストの弟子から啓示を聞いた時、目からウロコのような物が落ち、視力が回復した、とのことです。ふむふむ。このウロコのようなものが何なのか、に焦点を当てないわけにはいかないと思いますが、長くなりそうなので割愛します。このように、語源を知ることは、先人の教訓が含まれていることもあり、非常に有益なこともありますね。こういう事を、棚からぼた餅と言うのは、僕くらいだと思いますが・・・まあ、何を言われても、馬の耳に念仏ですよ、と反論するつもりですから、問題ありません。これを馬耳東風と言います。多大なる乱用と誤用を、この場をお借りしてお詫び申し上げます。
Purnululu National Park