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悪魔の主張
世の中には、悪魔の比較として、天使が用いられます。例えば、「天使のような悪魔の○○」とか、書籍では「天使と悪魔(ダン・ブラウン著、2003年角川文庫)」とか、フランス革命時代ですと、シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴールさん(以下、タレーラン)が「カフェ、それは悪魔のように黒く、地獄のように熱く、天使のように純粋で、そして恋のように甘い。」と言ったことが、一部のマニアの中では有名です。このタレーランさんの言葉は、言い得て妙ですね。特に、地獄のように熱く、という部分が重要です。猫舌の人には申し訳ないですが、この要素も、コーヒーを楽しむ重要なポイントなのです。また、これを聞いて、矛盾に気付く方もいらっしゃるでしょう。一般に、コーヒーと言えば、「苦い」という先入観があります。しかし彼は、恋のように甘い、と表現しています。これは、コーヒーに対して、かなりの愛情があったことを示していると考えられます。でなければ、あの真っ黒な液体を、甘い、とは表現できません。彼は美食家としても知られていますので、味覚も肥えていたことでしょう。さて、順番に見ていきましょう。「天使のような悪魔の○○」は、対義語として使われていますが、本質は悪魔ですね。極端に言えば、天使の仮面を被った悪魔、という表現になります。使い方を間違えると、大変な事態になることが予想されます。たとえば、奥様に対して、「君の料理は、天使のような悪魔の味だね。」とか、「天使のような悪魔のファッションだね。」なんて言ってしまったら、全力で自身の身を守りましょう。続いて、「天使と悪魔」ですが、これは書籍を持っていますので、読んだことがあります。バチカンが舞台でしたね。キリスト教の人には、馴染みがある部分もありますが、そうでない人には、やや入りにくいストーリィではないでしょうか。サスペンス小説で、不可思議な殺人が起こり、謎を解明していくという話ですが、とにかく、描写が素晴らしい、と記憶しています。バチカンは行ったことがありませんが、街のイメージが膨らみ、楽しく読むことが出来ました。それで、このストーリィの何が「天使と悪魔」なのか、明確な解説はありませんから、個人に託されているわけです。しかし、表現方法は対比であり、つまり、対等である、という事になります。続いて、タレーランさんです。悪魔を「黒」、天使を「純粋」と表現されています。こちらも、一つのもの(ここではコーヒー)に内在する要素として、対等であります。これらから、一般的に「天使」と「悪魔」は、対義であり、対等である、という事がいえます。しかし、よく考えてみてください。天使と言うのはあくまでも、神の「使い」なのです(ややこしい)。あるいは、メッセンジャーです。それに対して、悪魔は、神の反対の部分、コインで言うと裏と表、の関係であると言えます。つまり、天使と比較するのは、少し格が違うのではないか、というのです。誰が言っているのかって?それは、僕の中にいる、悪魔です。対義語や反対語で調べると、「天使」と「悪魔」の組み合わせは存在しますが、もう少し正確に表すならば、「天使」と「小悪魔」くらいが妥当であると考えますが、いかがでしょうか?こんなどうでも良い事を、春陽の差す公園のベンチで、考えて過ごしました。子供たちは、鉄棒や滑り台、砂遊び、ちょっとしたボルダリングをして遊んでいました。彼女たちが、「恋のように甘い」という表現を理解できるようになるのは、まだ暫く先のようです。
あくまでも羊