駅・線・トリック
人を評価する言葉の中に、「変わってるね。」があります。これは、主観に捉われているため、自分の知っている範囲を基準とした観察から発せられています。例えば、A君はゴキブリが好きだとします。B君は、自分の周りでゴキブリ好きを知りません。その結果、「A君の嗜好は、少なくとも、僕の知っている嗜好と異なるから、彼は変わり者だ。」となるのです。これは、ごく日常的な会話のやりとりで散見されます。そこから、2つのグループに分けることができます。変わっていることを好むタイプと、人と同じ事をしたがるタイプです。前者は、クリエイティブ(創造的)な人だと言えます。後者は、イミテイティブ(模倣的)な人だと言えます。どちらが正しいとか、どちらが良いか、という話ではありません。人それぞれでよろしいと思います。僕はどちらに属するのかな、と考えたときに、どちらかと言えば、後者に属します。新しいものを生み出したい、という願望は持っていますが、実現はしていません。ああ、そういえば仕事で監視装置を作りました。それは、オリジナルで、他に同じものは無かったと思います。しかし、似たものは幾らでもあるので、クリエイティブとは言い難いものですね。ただ、作っている時は、物凄く充実した時間だったと思います。素晴らしい体験でした。ですから、少しは実現したことにしましょう。しかし、ピアノにしても、クラシックの練習曲は、皆さんが弾く音ですし、ブログを書くことに至っては、すでに飽和状態です。変わった事をしようとしても、なかなか新しい事を見つけるに至りません。ですから、クリエイタの人たちは、本当に尊敬に値します。とはいえ、イミテイタにも素晴らしい人は当然いるわけで、やはり一概にどちらが素晴らしいとは言えません。重要なのは、自分が現状どちら側に属していて、これからはどうしたいか、という方向性を考える事です。これは、常に同じ側にいる必要はなくて、行ったり来たりで良いと思いますし、過去の履歴はさほど重要ではありません。何か、漠然とした方向性があり、それに向かっている、という状況が、健全な状態ではないでしょうか。しかし、あまりにも一所懸命に取り組むと、健康に影響を及ぼします。毎日、少しづつ、持続すること。これが最も健全だと思われます。周りから変わり者だと言われる人は、僕が見てきた中では、知的でクリエイティブな人が多いようの観察されます。時として、そういう人たちを社会は、「変人」と言って弾圧したり、いじめたりして、窮地に追い込みます。社会的な損失を考えることができない集団があまりにも多いように見受けられます。群れを成すことが悪い事だとは思いませんが、集団の「チカラ」を個人に見せつけるような真似は本当に下品としか言いようがありません。イジメの問題は、たいていそのように集団対個人となります。1対1はケンカですが、ケンカは誰だってするものです。死に追いやる様なイジメというのは、単なる犯罪ですから、厳罰が与えられるような法整備、環境を整えることが望ましいと思われます。政治によるイジメの対策は少しづつ、進んではいるようですが、最近のモリカケ問題のような国会議論で失われた時間をどうやって国民が受け入れるのでしょう。今後、国民の選挙の在り方も一波乱ありそうです。感情的な集団が、規模が大きくなると「巨大なチカラ」となります。そのチカラが暴走しない事を願うばかりです。さて、エキセントリックとは、「変わり者」という意味の単語ですが、比較的、ポジティブな使われ方をします。高評価する時に「エキセントリックだ!」と言われたりもします。僕は、この使われ方は好きです。海外ではどうか知りませんが、日本だけでしょうか?エレクトリックでエキセントリックだ、と言ったら、電気びりびりのコメディアンが思い浮かびますが、彼らは奇行で多くの人々を楽しませています。最近では、一部の視聴者から、そういう行為に対して、倫理を問う苦情が寄せられるそうです。なぜ、作品として観ることができないのか、不思議でなりません。まあ、そういう価値観があるということを認識するしかありません。クリエイタが、公共の場で、堂々と作品を見せることができるような風土が生まれると、日本はより美しい国になるように思われます。