浮かんでは消えていくアイデア
ブログを書くためには、何かネタを探す必要があります。それを毎日となると、なかなかしんどいように感じられます。しかし、ネタを準備していると、いざ、書こうとした時に忘れてしまい「はてさて、何だっけか」という具合に死語(かどうか定かではありません)を思いつくくらいです。或いは、ネタを覚えていても書いてみると、目標の半分くらいの内容だった、という薄っぺらなネタになることがほとんど。それよりも、モニタをぼんやり眺めながら、キーボードをとりあえず適当に叩き始めたほうが、意外と面白い発想が生まれたりします。今日のパターンは、ネタを忘れたバージョンでお送りしております。つまり、適当にキーボード叩く作戦を遂行している最中です。もう、待ったなし。時間との勝負でもあります。だらだらと書いていても仕方がありませんから、思考を「ギュっ!」と濃縮して、絞り出た言葉がここに綴られているわけです。濃縮還元はできません。なぜなら、もともと薄っぺらだからです(仕様もないジョーク)。しかし、濃縮された言葉たちが、僕のアイデンティティである事は間違いありません。それをもって、僕と成すのです。それはアナログであり、再現できません。それが個性だと言えます。その個性を見つめる事もなく「個性的」という言葉に拘る人が多いように感じるのは僕だけでしょうか。まあ、別に良いのですが。個性を否定してばかりいる人たちは、自身の個性も否定しているように見えてしまいます。つまり、口が災いの元という諺が当てはまるのです。最初の内は、そういう会話を聞くのは非常に憂鬱だし、面倒くさいのですが、ずっと聞いていると、次第に慣れてきて「この人は、なぜこのように他人を否定ばかりするのだろう」と考える余裕が生じます(つまり、僕はその人の話を聞いていないのですが)。様々な要因があるとは思いますが、その内の一つに、「承認欲求」があるからではないか、と推測しています。認められたい、自身の人間性を大きく見せたい、というような願望とも言えます。そういった願望が生まれるのは、子供の頃にありましたし、20代でもありました。いえ、30代もありました。今はそれほどありません。こういう願望は、自分が自分の事を良く知ることで、満たされるのではないかな、と思います。他人に認められたい、という考え方はそのままで良いのです。ポイントは「自分の中に他人を作る事」です。「自分と言う他人」が、自身を評価してあげれば、解決するのです。客観視する、という事でもあります。とても便利で合理的だと考えていますが、それを押し付けるつもりはありません。だって、人それぞれですから、この方法が僕以外に適しているとは限らないからです。ただ、このように考える人間が存在する、と認識していただければ、それでも満足できます。さあ、いよいよゴールデンウィークですね。土曜日に早速仕事が入ってしまい、9連休に減少しました。ドンマイです。