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消えゆく遊び場
春の陽気に促されるように、子供たちは、外に出て遊ぶようになりました。近くの公園までは、子供の脚で徒歩3分。神社の隣にある、小さな公園ですが、そこが子供たちの集いの場となっています。遊具は、1レーンの滑り台、バケット型の椅子のブランコ、鉄棒、平均台、雲梯(うんてい)、登り棒、シーソーなどがあります。たいてい、誰かが遊んでいるので、順番待ちになることもしばしば。そこで、ブランコや滑り台では、譲り合いの精神を学び、シーソーであれば、出来るだけ多くの子が楽しめるように、協調の精神を学びます。この時は、大人が介在する時もありますが、放っておいても、自分たちで考えて、誰かが仕切って遊んでいます。頼もしい限りです。子供と公園に行くようになって間もない頃、そうですね、長女が2歳になったくらいでしょうか。近くで、ハラハラドキドキしながら遊ぶ様子を眺めていました。というよりも、かなりの接近戦を展開していました。傍から見たら、「近っ!」てツッコミが入りそうな距離感だったと思います。というのも、たまに意地悪な男の子がいて、その辺のオモチャで頭を叩かれたり、脚で蹴られたり、という場面を何度か見たので、「守らなきゃいけないな。」と勝手に思っていました。しかし、どうでしょう。保育園に行くようになり、いろいろな友達と遊ぶようになり、かなり逞しくなったではありませんか。たまに、保育園に迎えに行くことがあったのですが、園庭で友達と身体をぶつけ合いながら走り回っている姿を見て、「良かった。」と安堵の気持ちで満たされたことを覚えています。転んでも、叩けれても、ちょっとやそっとでは泣かなくなりました。その頃からでしょうか、公園に行っても、安心して見ていられるようになりました。今では、次女とケンカをしながら遊んでいますが、これはもう、ある程度は仕方がない事だと思われます。外では、比較的、仲良く遊びますし。室内では、どうしてもモノを使った遊びになってくるので、その時に、次女がぐずります。長女は、少しずつ、なだめる、とういことを学んでいます。次女が泣いたら、すかさず、「よしよし。」といって頭を撫でています。こういう事を成長というのかな、と空を眺めてニンマリとしている父親が私ですが、何か?公園に行けば、ある程度は自由に遊べますが、家の前だと、すぐ道路があるので、例えば、縄跳びをしたい、と言ったら、1人見張りが必要になります。これは、安全上の問題です。交通事故は、子供のケンカの比ではありません。死につながるので、出来るだけ、見張りをするようにはしています。ただ、近所のお兄ちゃんお姉ちゃんがいる時は、「娘を頼むね。」と言って、一任しています。なんと言うか、頼もしいですね。同じ小学生でも、高学年は、落ち着きがあります。自分がその頃は、落ち着きがない少年でした。最近の子供たちは、昔に比べ、行儀が良い、と感じます。それは、遊び方が変化したという要因もあるでしょう。今は、子供1人につき、スマフォ1台ですから、座るところと、ネットが繋がるところ、そして充電できるところがあれば、ずっとゲームで遊べます。実際に、そういう施設もあることでしょう。大人と一緒になってスマフォを見ながら歩きまわっている姿も見かけます。野山を駆け巡っていたころの子供たちは、動物たちと同じように、開発が進むにつれて、追いやられています。そこに、ゲームやオモチャなどがあれば、当然、そこに行くでしょう。「子供たちに明るい未来を。」と言いながらも、その未来の発想を奪うような行為が行われているように思えてなりません。そこに見えてくるのは、経済活動や、利権といった「大人の欲」です。子供たちの未来に必要なのは、大人たちの協調と譲り合いの精神かもしれませんね。お祭りやレクレーション大会ばかり盛り上げるのではなくて、日々の遊びがもっと充実するような社会を提供できると、子供たちの未来は、そう、春の陽気を浴びて花が開くように、明るくなるのではないでしょうか。
芝生の公園