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特別な空間における複雑な解釈
先日の日曜日、父をとある教会まで送迎しました。そちらの教会は今年で記念すべき50周年を迎えたそうで、奇数月にイベントを開催しており、そのイベントに参加する形となります。僕はあくまで送迎者ですが、幼少期に(家族で)通った場所なので、知っている方もいらっしゃいます。30年以上の歳月が流れても、お互いを認識できるというのは、素晴らしいですね。名前は忘れてしまいましたが、顔は何となく覚えているのです。特に、叱られたことがある人は、良く記憶に残っていますね。今でこそ、叱っていただいた事に感謝をするばかりです。当時はどれだけ悪態をついたことでしょう。大人になるということは、いささか、他人に迷惑をかけることも含まれているように思えます。むしろ、それで人間社会が成り立っているのでしょうか。共生と言う言葉の意味を考えさせられる一日となりました(実際に考えたのは、ほんの10分くらいかもしれません)。何か文章を考えていると、ついつい誇張してしまいがちです。悪い癖だとは認識していますが、面白い分には許容範囲かな、と都合よく解釈しておきましょう。かのニーチェは「事実などない、解釈があるだけだ。」と言ったそうですが、人それぞれの考え方がある事を表しており、物事は多面的に捉えるべきだと忠告しているようにも受け取れます。真意の程は判りません。しかし、それで良いのではないでしょうか。いえ、それがむしろ、氏が言わんとする事ではないかと考えます。これは、以前にも書いたことかもしれませんね。さて、教会で話を聴いている時に思った事ですが、人間はついつい、真理を求めてしまいます。知りたい、という欲求が生まれる訳ですね。これ自体は悪い事ではありません。しかし、その欲求を満たすことで真理を見出そうとする行為は、言い方を変えれば、欲求が満たされなければ、真理にたどり着くことはできない、という事になります。そして、欲求は、生きている限り満たされる事はありません。であるならば、発想を逆転して、真理を求めるのではなく、真理を前提として、起こり得る事象を、真理に照らし合わせて解釈していく、という考え方が生まれます。信仰とは、そういう事ではないのかな、と感じた次第です。今まで、そういう視点を持っていなかったので、良い学びの場、時間となりました。それが正しいとは思いませんが、そういう考えの在り方については「真」だと言えます。芯が座った人、という表現がありますが、まさにその事を言っているのです。自分に当てはめてみると、芯と言えるものは未だに持ち合わせていませんが、時折、肩の筋肉が張って痛みが生じる時、その筋肉部に芯を感じる事があります(ジョークです)。自分にとっての真理が何か、その問いに対する答えがその内見つかるといいな、という希望的観測を楽観的に夢みるアラフォーの男がここにいます。僕のようなノンクリスチャンが当たり前のように教会に行き、他のクリスチャンの方と礼拝に参加する、という事は、あまり好ましくないのかもしれません。しかし、学びの場としては、とても有益な場所であることは疑う余地はないと思います。その教会の方々は品格もあり、素晴らしい人ばかりです。そういった方に失礼の無きよう、僕も最大限の努力はしなければなりません。これは義務といよりは、礼儀というものでしょうね。諸葛亮孔明が三顧の礼によって、劉備玄徳の傘下に加わった話は有名ですが、例えば、僕が教会に3回訪れたからと言って、どなたかが親しくしていただける、ということではありません。先ずは、自分の目で見て、耳で聴いて、肌で感じる。そして、あとは考える。このプロセスが、自分をより真理に近づける、いえ、真理が自分の中心となるのではないか、と思うのです。三国志の話が出たので、明日は三国志で決まりですね。
WESLEY CHURCH