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感想を言葉にするには時間が必要
簡素な内容にすると宣言したのに千文字オーバーしてしまいました。自分の意思とは無関係に言葉が紡がれていくというのは、次女のお喋りの特性となんら変わらないな、と気付いたので反省しました。ただ、ここまでは書きたい、という展望はどうしても生まれるので、それを言葉にしていると、意外と長くなるのです。読書感想文はとても嫌いでした。本を読んで、それに対して自分が何を思ったか、と言われてもイマイチ言葉が浮かびませんでした。とても抽象的なイメージは頭にあるのですが、具体的な言葉に変換することが難しいのです。漠然と「おもしろかった」と書いても「何が?」とツッコまれるのは当然かもしれませんが、それ以上の表現のしようが無かったのです。感想文を書くために本を読む、というのは本末転倒でもあります。しかし、これもレトリックを学ぶ機会だったのだな、と今になって知るのですが、時すでに遅し。僕が書いた読書感想文は、今頃チョウのようにひらひらと空を彷徨っていることでしょう。僕が慣行した手法は、本のあとがきを探して、手を加えるという、オーソドックスなものでした。多分、先生はすぐに気付くことでしょう。なぜなら、あとがきに寄稿するのは、名の知れた作家さんが多く、恐れ多くもその文面を参考に(というよりほぼコピー)していたので、小学生が表現できるような内容ではないのです。今であれば、読書感想文というタイトルで全く関係のない内容を長々と書くことでしょう。それはオリジナリティが溢れかえっていますが、評価はされません。だって、タイトルと内容がちぐはぐでしからね。そう思うと、あの頃は、読書感想文という体裁に拘っていたのかもしれません。「こうやって書かなきゃ」という固定観念に捉われていた、よもや強迫観念に襲われていたとも言えます。もっとシンプルに考えていれば苦労はしなかったと回顧しますが、その苦労があったので、反動でこうして毎日言葉を吐き出しているのかもしれません。これといったトピックもなく、だらだらと書くのが、性にあっているようです。小説は書けないと思います。エッセイであれば、考えを記すだけですから、簡単です。小説はストーリィがあるわけで、それが読み手にとって自然にイメージできるような文体が望まれます。もちろん、イメージの個人差はあるはずです。それも楽しみの一つという人もいるでしょう。他人とのコミュニケーションツールとしても使えますからね。範囲としては非常に限定されますが。そういえば、ここ最近は小説を読んでいません。1冊読むのに半日近くかかります。仮想のストーリィにそれだけの時間を充てる余裕が無くなってしまいました。もう少し時間にゆとりを持たせたいものです。
南国の家