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映像化時代の幕開け
人の話をあまり聞かない僕ですが、最近になって、「話の聞き方」を少しずつ掴みかけてきたように感じます。元来が飽き性ですから、10分も話が続くと飽きてしまい、他の事を考えてしまいます。学校の授業ではそれが顕著でしたね。先生が話し始めて暫く(と言っても10分)は理解に努めていたのですが、どうも思考の映像(回路?)が乱れ始めて、より現実的な問題(今日の弁当は何か、とか)を考えてしまうのです。そういう意味では非常に現実主義ではあります(不適切な用法)。こうなると、集中力が欠落していると自己批判をしてしまいがちで、現にそれに悩んだ時期もありました。どうしたら集中力が継続するのか、自分なりに考えて取り組むのですが、奮闘虚しく睡魔の餌食となるのでした。そういう取り組み(レベルが低いのですが)の中で、聴講中の飲み物がコーヒーだと、副交感神経が働いて余計に眠くなる、という事や、言葉を理解しようとすると、それは子守歌へのいざないのメロディーに変化する、という事が判りました。そこで、とにかく、集中しないようにしよう、と逆転の発想を試みることになりました。そのかわり、言葉を常に「映像化」するように、頭を働かせる必要はあります。この映像への変換は集中力が不要で、目を瞑ってもできる事ですから、非常にリラックスします。なにか、映画を観ているような気分で話を聞くことが可能になります。もちろん、全てを記憶できるわけではなく、もやっとした、しかも断続的な映像だけが残るのですが、それでも眠りに落ちることが少なくなったので、大成功だと自負しています。これはあくまで個人の感覚ですから、他の人がどうか、興味深いところではあります。おそらく、様々なタイプがあることでしょう。中にはレコーダのように、話を詳細に記憶し、再生ができる人もいるでしょうし、抽象的にまとめて、一つのカプセルの中にしまっておくような記憶方法の人も(もしかしたら)いることでしょう。いずれにしても、話の本質的な部分をどのように捉えるか、が重要であると思います。その人が何を言ったか、というよりも、その話によって何が得られたか、を考えることで、個人の糧となるのではないでしょうか。しかし、他人の会話を聞いていて面白いのは「えー?」「うんうん」「わかります」「そうそう」「へぇー」などの相槌が頻繁に出てくるのですが、明らかに話を聞いていない時の反応って、何となく分かりますよね。生返事というのでしょうか。それを言葉に還元するのは難しいのですが、反応が鈍いというか、上の空というか。理解していない時の反応とはまた異なる様です。自分の反応を客観的に見たことがありませんが、きっと同じような反応を示していることでしょう。自分で言うのもなんですが、思いあたる節がありますから。講演などの話し手から見ても、聞いているかどうかの判別はかなりの精度で可能であると聞きます。人前で話す機会がないので、それを確認することはできませんし、仮に話す事があっても、それほど余裕もないことでしょう。QC発表会などがありますが、あれは原稿を読むだけですが、目を離すと何処を読んでいるか見失うので、余裕はありませんね。プレゼンテーションの練習で、何度か「話し方に抑揚が無い」という指摘をいただきました。もう少し感情的な話し方をした方が良い、というのです。しかし、それはエンターテイメントであり、言葉は空虚となるのでは、と考えます。どのように発表するか、ではなくて、何を発表したか、という点を上位層は見たいのではないのか、と疑問を抱かずにはいられません。であれば、何のための発表会なのか、という、やや捻くれたアラフォーのおじさんの戯言でした。お付き合いいただいてありがとうございます。ここまで読んで睡魔に襲われなかった人は「素晴らしい人だ」と断言しておきます。戯言ですから・・・
影絵で猫顔