• 雑談

    太陽を直視していたころ

    小学生の低学年の時に、体育の授業だったと思いますが、外で何かをしていて、ふと空を見上げたら、太陽が上にありました(当たり前)。その時、無知ですから太陽をそのまま、ずーっと眺めていたことがあります。最初は、まぶしくてぼんやりとしか見えないのですが、その内、慣れてくると、光の中に円を見つけることができ、太陽の輪郭が浮き彫りになりました。それを見て、何かを感じたわけではないのですが、その画像は脳裏に焼き付いています。もしかしたらそれからでしょうか、視力が毎年のように低下しました。現在、0.1以下の視力は、コンタクトレンズにより、1.0まで補正されています。本当にありがたい事です。眼鏡でも、自動車を運転できる程度には補正してくれるので、生活で特に困る事はありません。コンタクトレンズは二週間で使い捨てタイプのものを使用しています。毎日脱着が必要ですが、それは眼のためにも当然、休憩時間を設けてあげなければなりません。一時期、1週間連続装着可能、と謳ったコンタクトレンズを試してみましたが、眠りから覚める時にレンズが眼球の裏に隠れてしまい、しかもそこでへばり付いたので、定位置まで移動させるのに、難儀しました。それから、もう二度と連続装着タイプは使用していません。今では、恐らく販売されていない事でしょう。よくよく考えれば、あれで商品にしようとしたメーカーは、どのようにテストをしたのか、甚だ疑問ではあります。試験を繰り返し行い、問題ないことを確認したとは思うのですが、余りにもお粗末な結果となりました。買った僕にも問題はあった訳で、それは反省しています。今であれば、そのような商品を買って、同じ体験をした若者がすぐにFacebookなどのSNSに投稿し、ネットで炎上することでしょう。それで万が一メーカーが儲けたら、立派な炎上商法ですね。ここで立派、という表現はいかがなものかと思い至りましたが、すでに書いてしまったので、そのまま採用していきます。例え、誤用であっても、自分の中から産まれてきた言葉たちです。一度は陽の目を見させてあげよう、という親心から、そのように修正せず、綴っているのです。文章を書く時、最大のメリットとして、修正ができる、という点があります。会話では、いったん口から出た言葉たちは、返ってきません。相手に誤解させたまま続けるか、相手の指摘を待つか、自分から指摘するか、第三者が気付くか、誰も気づかないか、いずれかだとは思いますが、発言した後に修正する、というのは、なかなか労力がいる事です。しかし、会話ではそういう部分も楽しむ余裕がなければ、長続きしないでしょうね。僕はコミュニケーションが苦手なので、出来るだけ早くしゃべって会話を終わらせようとするので、早口言葉になりがちで、よく噛んでしまいますし、言葉のチョイスを間違えたり、文章構成に問題があったりと、散々です。こうやってブログを書いていると、文才があると言われますが、仮にその才能があるとしたら、会話で生かされたことは皆無と言えます。ですから、自身では、文才は無いものだと思っています。ただ、表現の自由としてこの場を捉えているので、湧き出る言葉たち(誇張)を少しずつ、綴っている次第です。さて、朝から子供達が、太陽観察専用眼鏡で、太陽を見ています。どんな印象を受けたのか、気になるところではありますが、彼女たちの新たな発想が生まれる事を楽しみにしておきましょう。

    風の谷を照らす黄金の太陽