小スケールなグローバル視点
ゴールデンウイークに突入していますが、今年は、カレンダーの都合で大型連休となる会社が多い事でしょう。勤め先も、多くの人は9連休になります。僕は、残念ながら断続的な7日間休みです。とはいえ、それでもゆっくりとできますね。時折、「そんなに休みがあっても、やることが無い。」と言う人がいますが、現代ならば、やる事はむしろ、山ほどあります。選ぶことの方が難しい。どれが自分に適しているか、どれに対して、興味を示すのか、客観的に判断することは、確かに難しいのかもしれません。中には、子供の頃から、ずっと続けていることがあって、それをひたすら続ける、という人もいるようです。いわゆるプロフェッショナルですね。遊びのプロフェッショナルは、次から次へと、遊びを見つけます。子供たちがそうです。なぜ、大人になるとそれが出来なくなるのでしょうか。いえ、正しくは、出来なくなる人がいるのでしょうか、ですね。一つの理由として、主体性の欠落が挙げられます。日本では、小さなころから悪ガキで・・・じゃなくて、小さなことからこつこつと・・・でもなく、小さなころから、集団行動について、学びます。協調性について、ですね。それは、小学校、中学校、高校、大学、社会人に至るまで付き纏う、と言うと語弊がありますが、ずっと求められます。誰から求められるのか?これは大きくみれば、社会から求められているということになります。良心もそう。社会的要求の内在化が、良心の本体です。相互扶助、という概念は中学校くらいで習うのでしょうか。記憶にございませんが、簡単に言うと、お互いに助け合う事ですが、本質は何でしょう?これも、ひいては、社会が求めているのです。では、社会とは何か?僕が思うに、「国 ≠ 社会」です。むしろ「地球 ≒ 社会」になるでしょうか。社会とは、概念であり、対象となるものは、その時々において、様々に変化します。基本的には、人々の集団を差しますが、境界はあいまいです。例えば、日本人社会における倫理の体たらく、と言った場合(普通は言いませんね)、海外に住んでいる日本人は、そこに含まれるのでしょうか?白人社会とは、どの辺りの事でしょう。ライオン社会、と言ったら、西武鉄道でしょうか?かように、社会とは、極めて自由度の高い、抽象的な言葉であり、使い勝手が良いのですが、忘れてはならないのが、私たち人間が生きている、この世界であることです。人類が平和に暮らすことが出来るように、古の時代から、様々な教訓、教典が伝えられてきました。それにも拘らず、一部の人間の身勝手な行動により、大きな争いに発展し、罪のない人々が巻き込まれています。争いの種を蒔くのは、常に大人なのです。そんな大人たちが、どうして国を治めるリーダーになるのでしょう。不思議でなりません。非常に悲観的に考えると、近いうちに戦争が始まるのではないか、と思えます。せめて、未来を担う子供たちが巻き込まれることが無いよう、願うばかりです。そして、争いの無い世界を、私たち大人が子供たちに与えてあげたいものです。ちょっと、ガラでもない事を書いてしまいましたが、もともと、僕がどんな「ガラ」なのか知られていないでしょうから、問題ないでしょう。強いて言うなら「ガラパゴス」でしょうか。日本人だし・・・ガラパゴスと言えば一時、ガラケーは遅れている、と非難されている時期がありました。それから間もなくして、グローバルな使用を想定したスマフォが登場しました。暫くはスマフォ一色の話題でしたが、暫くすると、スマフォは頭打ちになり、ガラケーの人気が出ました。そこで、いわゆる「出戻り」が大量に発生したのです。機能で見れば、ガラケーは明らかにスマフォの下位ですが、「携帯電話」としても役割は、間違いなくガラケーで必要十分ですから、当然の帰結とも言えます。最近では、スマフォの新作が出ても、それほど世間は反応しなくなりつつあります。飽和状態ですからね。今後はAIサービスがインターネット経由で利用できるようになると予想します。たとえば、お喋り相手になってくれるサービスとか。有料で、有名人の声でAIが相手してくれるかもしれません。マニアックですが、そういうマニアックな需要を満たすようなサービスの普及が、新たな活路となるのかもしれません。
