哲学?

タイトルは雨

本日(30日)は朝からシトシト雨模様。6時に起きると、既に外は明るいのですが、曇り空を見てしまうと少し寂しい気分でもあります。とりわけ、週末にはその感情が顕著に現れます。平日(就労日)は特に気になりません。「ああ、雨か」くらいのリアクションです。たまに、自分のリアクションが面白いことがあります。そういう時は陰でクスクスと笑っているのですが、傍から見たら怪しいかもしれません。見られていないことを祈るばかりです。会社という組織は、例えば木に例えると、経営者というのは、「根」の部分であり、「枝」が各部署の中間管理職。そして「葉」が一般社員といったところで、経営が潤えば、花が咲き、実がなるのかな、というイメージを持っていましたが、よくよく考えて見ると、少し違うかな、と。経営者は「種を蒔く」主体であり、「根」や「枝」が管理職、「葉」が一般社員という構図が妥当であると思います。経営者は、先ずどこに種を植えるのか。土壌をリサーチして、どれくらい花や実(利益)が咲くのかを検討します。場所が決まれば、時期を決めてから種を蒔き、必要な栄養分、土、水など(投資)を与えます。そうして根付き、枝が広がって葉が生れ、花が咲き身となります。その花や実が、利益となり、また新たな展開を可能にします。あ、でも葉は冬になると枯れてしまいますね・・・社員が「葉」というのは不適切かな?まあ、一時的なものであり、また生えてきますから、それは良しとしましょう(この辺りがO型の性格(大雑把)です)。こうやって、現実の世界をついつい生物界に転換しようと発想する事自体が、「人間って面白い」と感じる所以です。もしかしたら、動物たちも同じように「俺が人間だったら」なんて想像して時を過ごしているのかもしれません。「○○(飼い主の名前)は最近太ってきたから、散歩に連れていかなきゃ」と考えて、必死に吠えている可能性もあります。「首輪のロープ、簡単に外せるけど、怒られてごはんを貰えなくなるから、やめておくか」と従順な一面を演技しているのかもしれません。コミュニケーションが、具体的な「言葉」で行えないから、意思疎通ができないのではないか、と考えてしまいがちですが、言葉ほど不器用な道具もないのではないか、と子供たちを見ていると考えさせられます。子供たちは、言葉が通じなくても共に笑い、はしゃぎ、走り回り、そして泣きます。これらはコミュニケーションの本質を教えてくれます。社会では、言葉によって、多様で複雑な関係が生まれてしまいますが、その言葉と言う概念を生みだしたのは人間です。このツールを最大限、自身にとってプラスとなる方向に用いる事ができれば、と希望的観測。電車の発車ベルが鳴って駆け込み乗車をするときは、希望的加速。やすきよ師匠はキー坊とやっさん。意味不明な人が出てきましたが、こういうくだらない言葉遊びを、ゆとりというのかもしれません。