哲学?

スキマ勉強

柄にもなく、参考書などを買って、毎日開いているのですが、どうにも進捗が上がりません。理由は明確で、集中力の欠如です。昨日なんかは、命題という数学の概念を少し学んでいたのですが、「pならばqである」という命題に対して十分条件、必要条件、充分必要条件の区別ができなくて、すぐにインターネットで調べたり、例題について考えたりしていました。そうなると、さらに他の問題が発生して、この命題の対偶、逆、裏という組み合わせまで理解する必要が出てきます。となると、さらなる検索を必要とし、問題と顔を合わせる事になるのです。こうして、意識はどんどん別の場所へと向かい、自分自身の命題が何だったかな、なんて遠い着地点を迎えることになります。この癖はもう修正が難しいので、意識が散漫になることを受容するしかありません。ただ、忘れないようにしていることは、出発点をマーキングしておくことです。というと格好良く思えますが、要は参考書にしおりを挟んでおく、という行為に他なりません。しかし、この行為が、出発点へ戻るという意識を片隅に常駐させてくれるので、迷子になっても問題ありません。戻る事は容易なのです。機械で言うところのリセットみたいなものです。残念なのは、その思考のプロセスが失われる事ですが、失われるということは、自分にとってそれほど価値があるものではないだろう、と楽観的に見ています。そもそも、迷うような思考プロセスが問題なのですが、哲学という観点に立てば、決して悲観的ではないのかもしれません。哲学では「問い続ける事」が重要だと認識しています。鉄学というものは存在しないでしょうけれど、様々な素材が生れているのは事実ですし、文明生活の必需品ともいえるかもしれません。意外にも純度の高い鉄は脆いようで、炭素の配合量によって強度を得るようです。こうやって思い付きを広げていくことで、帰り道を見失ってしまうのですね。鉄学って・・・さて、こういう小鳥族みたいな知識の摂取を基本としているので、5分刻みくらいで違う作業をローテーションするような状態になります。参考書を見る、ネットで調べる、洗濯物をたたむ、ご飯を食べる、洗い物をする、ピアノを練習する、参考書を見る、といった具合です。平日休日関係なく、このような行動方針です。見かけ上、マルチタスクを行っているような錯覚があります。しかし、なんてことは無くて、一つの事を短い時間に区切って行うだけです。コンピュータの技術でも、同様の処理方法が存在します。現在はマルチコアプロセッサが主流ですから、それほど重要視されないかもしれませんが、シングルコアプロセッサの時代は、それはもう、もてはやされた事でしょう。人間は、脳が一つしかないので、シングルコアだと思われがちですが、僕はマルチコアだと認識しています。だって、同時に二つ以上の事を実行できますよね?右手と左手をそれぞれ別の動きをさせることも可能ですし、歩く、という動作は両手両足に連続的に同時に信号を送っています。お喋りしている時に、ボールが飛んで来たら、会話をしたままボールをキャッチすることだってできます。仕事を同時にこなす事を、マルチコアと表現されることが多いようですが、ほとんどの仕事は、同時並行的に進んでいるのではないでしょうか。個々の仕事の速さに直結するのは、コンピュータでいうところのクロック周波数の違いだと思います。あとは、最適化されているかどうか。無駄な作業が多い状態というのは、最適化されていないため、どうしても仕事は遅くなります。このブログを書いている間にも、何か飲み物を飲んだり、子供の相手をしたり、メールを確認したりと、他事をたくさんしてしまいました。これは、最適化されていないというよりも、分散させているだけです。文章を書くこと自体は、ある程度最適化されてきたのではないか、と感じているところです。ただ、まだまだ改善の余地はあるので、その辺りは今後期待しつつ、スキマを見つけてはチャレンジする所存です。

スキマのオヤジ