哲学?,  歴史

願い事の物理的な距離感

七夕ですね。「たなばた」と読むことは誰でも知っているところですが、思いっきり当て字であることをツッコむ人はあまりいない様です。「しちせき」と読むのが正しいのでしょうが、恐らく、口頭で「明日はしちせきだね」と言っても、ほとんどの人には通じないことでしょう。もともとは、禊(みそぎ)行事であったのですが、中国から仏教が伝わると、お盆の準備として、7月7日の夜に行われるようになり、さらにおりひめとひこぼしのお話が織り込まれて、現在の七夕となっているのですね。ふむふむ。こと座のベガは裁縫の仕事、わし座のアルタイルという星が農業の仕事を司ると言われており、旧暦の7月7日に、天の川を挟んで最も光り輝いているように見えたので、この日を1年に1回のめぐり逢いの日として考えられたそうです。この想像力たるや、素晴らしいですね。短冊に願いをつるしてどうーのこーのというのは、正直どうでもよろしい事なのですが、星空を観察し、1年に一回の事象を発見して、そこからストーリィを産み出すというのは、現代社会のようなせわしない時代にできる事ではありません。天の川が毎日、当たり前に見える環境。日本でも、電線が張り巡らされる以前は、平地にある部落からでも、天の川は見えたことでしょう。もちろん、天候次第ですけど。空気がきれいですと、空までの距離感が近く感じられます。これは、オーストラリアのブッシュキャンプで、体験してきた部分ですから、そうは思わない、という方がいたら、ぜひ、そういう環境で一晩過ごしてみることをお勧めします。近く感じられるといっても、手を伸ばして届くわけではありませんし、その星の光が強くなるわけでもありません。エアコンでいうと、目詰まりしたフィルターと、綺麗に掃除したフィルターでより効率的なのは、どちらでしょうか?後者である事は言うまでもありませんね。何時も微妙な喩えで恐縮です。さて、先日、近所のアピタで買い物をしていたら、子供たちが七夕コーナーを発見しました。といっても、2mくらいの笹が置いてあり、自由に短冊に願い事を書いて吊るしてください、というよくあるモノです。まあ、子供達がどんな願い事をするかは、だいたい想像がつくので、あまり見ないようにしていますが、吊るしてある短冊を見ると、だいたい自分の欲求を満たすことを考えているものが多いですよね。背が高くなりますように、とか、頭が良くなりますように、とか、かわいくなれますように、等です。これらの願いごとは、微笑ましいかぎりです。中には、争いが絶えますように、とか、世界が平和になりますように、とか、みんなが幸せになれますように、などの素晴らしい願い事が書かれています。これは本当にその通りで、戦争が無くなれば、もう少し世の中は幸せな人が増えるはずですから、ぜひとも叶えていただきたいと思います。しかし、どうでしょう。おりひめのベガまで約25光年。ひこぼしのアルタイルまで約16光年。その中間地点を約20光年として、願いが高速で飛んでいけば、20年後に叶うかもしれませんね。それまで、短冊に記した願いを発信し続けることが出来る人がどれだけいるのでしょうか。こんな皮肉っぽい事ばかり考えてしまいます。性格が悪いと思われるかもしれませんが、どちらかといえば、悪いでしょうね。すぐにイラっとしますし、ヒトと接するのが苦手、というか面倒だと思います。飲酒は時間の無駄だと考えていますし、懇親会みたいな会社の飲み会は、会社行事ではありません。だって、自腹ですから。ただ、プライベートな時間に、会社のメンツで集まる、というだけの話です。飲んでバカ騒ぎして、何が楽しいのか判りませんが、他のお客さんに迷惑を掛けないようにしてくださいね、といつも願っています。ああ、それを短冊に書けば良かった。でも、それを書いて、20年後に叶ったとしたも、もう定年間近です。その事には、酒飲みに化けているかもしれません。やれやれ・・・

空に近い場所