直向きな趣
新しく何かを始めようとする時、子供の時であれば躊躇なく踏み出すことができると思います。なんせ、新しい事だらけでしたから。自転車、水泳、楽器、スポーツ、オモチャ(?)などなど、それに取り組む時はワクワクしていたことでしょう。勉強に関しても、同じように捉えることができていれば、もっとワクワクして授業をうけていたはずです。これは勿体なかったな、と後悔しても仕方ありませんが、そういう考え方が出来なかった自分の責任です。取り戻せる部分は、今からでも遅くないので学んでいかなければなりません、と自分に言い聞かせておきます。大人になったら、新しい事にチャレンジする時に、ついつい理由を探してしまう事に気が付きました。例えば、ゴルフを始めたい、と思うけれど、「なぜ、ゴルフをやりたいのか」という自問に対し、答えを探してしまうのです。やりたければやればいいだけの話なのですが。そうそう、友人がゴルフやマラソンを始めた、という話を聞いて、そういえば僕は趣味がないから、何か見つけようか、と考えた時期がありました。幾つか候補をあげてみたのですが、先ず思いついたのは麻雀。これは経験済みですから、どういうものか既に把握しています。そして、趣味と考えた時に、仲間(対局相手)がいるから、楽しいと感じていたのであって、一人でもくもくと取り組むにはふさわしくないかな、と気付きました。本来、趣味というのは個人の趣ですから、孤独な作業或いは思考だと思うのです。時に、情報交換として、他人と共有する部分はありますが、基本的には自分で楽しさを満喫する行為です。そこに仲間を求めるのは、結局、そういう集いを求めているのかもしれません。「わいわいがやがや」が好きな人は、例えば野球、サッカー、ゴルフなどを趣味とするも、その後の打ち上げを楽しみにしている人が多いのではないでしょうか。そういったものは、趣味というよりはコミュニティ活動に近いものだと捉えてしまいます。決して非難するつもりは無いのですが、もう少し嗜好が特化しているのではないか、と思うと、なかなか気軽に選べません。そもそも、無理して見つける必要がない、という話なのですが、履歴書なんかだと、必ずそれを書く欄があります。面接でもそれについて聞かれたこともありました。その時は確か、「ソフトバレーボール」と記入していて、面接官がそれについて話を展開した記憶があります。内容は忘れましたが。履歴書にそういう欄があると、趣味を持たないのはいけない事だ、という一種の強迫観念のように感じていましたが、最近では、「趣味無し」と堂々と言う事にしています。結局、拘る必要がない、ということですね。その時に思いついたこと、好きなことに取り組めばいい。その時間は間違いなく自分自身の時間ですから、他人の評価を気にするような行動をとるのは、非常にもったいない。最近は、ピアノや電子工作、コーヒーの焙煎くらいしか取り組んでいませんが、それらは趣味ではなく、ただの「チャレンジ」です。読書、旅行などを、二度と趣味とは言いません(趣味の欄に記入していました)。様々な可能性を、常に残しておきたいので、拘ることはしません。いえ、強いて言うなら、「楽しむという事に拘る」でしょうか。わくわくどきどきは、生きている以上、何時までも感じていたいものです。その気持ちを純粋に楽しむことが出来た時、初めて「趣味」を見つけたと言えるのかもしれません。否、見つける必要などなくて、ありのまま、気の向くままに行動することですね。もちろんこっそりと密かに、です。
