• 雑談

    校閲に必要なのはAIか?それとも愛か?

    このブログは、WordPressという、有名なオープンソースのソフトウェアを利用しています。利用者が多いので、困った時は、インターネットで検索すれば、関連情報がわんさか出てきます。ブログの本文も、ブラウザ上で入力し、アップロードしていました。ところが、毎日のように、誤植が発見されるため、いい加減ウンザリしてきました。そこで、何か良い方法はないかな、と模索していたところ、そういえば、パソコンに、Wordがインストールされていることを思い出し、Wordを立ち上げて、ブログの文章を一日分コピーしてみました。すると、たちどころに校閲が成され、至る所に指摘の波線が現れました。この時、自分の言葉がいかに不適切で、間違いが多いのか、知ることができました。これが、4月6日のことです。それからは、Wordで文章を入力し、校閲を済ませてから、アップロードするようにしました。これにより、不適切な言葉遣いは、少しは減ったかと思われます。不適切な表現までは、さすがにフォローしてくれないので、その辺はご愛嬌とういことで。今日の文ですと、上記に「情報がわんさか・・・」とありますが、そこに赤い波線が出ています。これは、何が間違っているのかが不明なので、そのままにしています。その部分を右クリックすると、「入力ミス?」と表示されていますが、そんな覚えは無いので、無視しています。自分のミスは、なかなか気付かないのですが、こういった曖昧な指摘には、強気に正当性を主張しなければなりません。でなければ、文章を書くことが虚しくなってきますので。譲れない表現は、何があっても、そのままにしようと考えています。だって、それが「人間らしさ」を表しているのですから。機械的な文章をわざわざブログにアップするつもりはありません。こんな事を書き並べておいて、いつ、校閲の指摘が入るか、ドキドキものです。謙虚にならなければ、ですね。今までで多かったのは、「○○なんです」という言葉。「○○なのです」が正しい言葉遣いだと指摘されます。あとは、「○○してます」も、ダメです。「○○しています」にすれば、OKをいただけます。他には、ら抜き言葉を、ちらほらと指摘されます。これらの指摘部分は、口語では、ごく当たり前に使われていますよね。誤りの部分に、しっかりと校閲の指摘が表示されています。皆さんからは見えません。青い二重線で「ここが違う。」と教えてくれています。さて、自分の文章は棚上げして(アップロードして、という意味ではありません)、毎日、ネットで色々なニュースを斜め読みしていると、誤字脱字が目に留まることがあります。そんな時、その記事のコメント欄を見ると、たいてい、誰かが指摘しており、中には「プロ(ライタ)ならば、ちゃんと推敲してからアップロードしてください。」とハッキリと物申す方もいらっしゃるのです。「厳しいな。」と感じつつも、自分のブログでも同じような事が言えるのではないか、と、背筋が伸び切った思いです。違いますか。猫背を伸ばしたような思いです。イマイチですね・・・背筋を収縮させて、胸部を伸長させる運動を、20回3セット行った思いです。これだと、何が言いたいのか分かりませんね。こうやって、読み手を元の文章から遠ざけておいて、結局、自分が迷子になった、というパターンはもう通用しませんか。僕は昔から、会話を中断させてしまうような事を、平気でいってしまう癖がありました。決して、わざと言っている訳ではなくて、むしろ、面白いのではないか、と考えて、言葉を発するのですが、結果的に、場をしらけさせてしまうのです。これは、病的な言葉遣いというか、「言葉使い」という妖怪みたいに思えます。そういう経験がありまして、最近では、控えめな会話を心掛けています。沈黙は金なり、を本当かどうか確かめているわけではありませんが、それに近い行動を取らざると得ない状況が渦巻いています。身から出た錆、干からびたサメ、疲れ果てたサンタクロース・・・韻を踏むこともできませんでした。こんな事を通常の会話で繰り出されたら、相手の方は、本当に迷惑でしょうね。自粛しなければ、と、強く心に刻もうと思いましたが、心ここにあらず。という事で、またの機会にします。

    ワイナリーの通路