• 雑談

    日帰りネットサーフィンの落とし穴

    何かを勉強する時、インターネットはおろか、パソコンが普及していない子供の頃は、辞書を引く、或いは先生や周りの人に聞くことが、主な情報収集としてのツールでした。それはそれで、特に不便だとは感じていませんでした。それが当たりまえだから、そうするものだ、と認識していたからでしょう。そして、インターネットが普及した今日では、直ぐに検索し、関連した情報を得られるようになりました。分厚い辞書は、薄っぺらな電子機器に集約され、その他にも書籍や写真、資料といった紙ベースの印刷物は、全て電子化が可能となり、たった1台のスマートフォンを持ち歩くだけで、様々な情報がそこから取り出せます。これは本当に便利だな、と感じます。ただ、その便利さに依存している自分を発見する時があり、そうすると、あまりインターネットを利用しないように意識して、物事を考えるようにしています。思考が停止している状態に陥ってしまうのです。何となくニュースのトピックを眺めて、適当にそのサイトを開いて、記事を流し読みして、その中に他の気になるサイトが見つかれば、そこに飛んで、という、いわゆるネットサーフィンをしていると、きりが無くなってしまいます。明らかに不要な情報までを吸収してしまう事があるので、かなりブレーキを掛けて、厳選してニュースを読むようにしています。ゴシップ(芸能情報)は、最近は全く関心を持たなくなりました。時間の無駄だと気付いたからです。他人の生活を覗いて、何が楽しいのか、と思います。それでも、5年前くらいは、まだゴシップを読んでいました。それにより失った時間は取り戻せませんが、今となれば、良い学びとなった事にしておきましょう。ピアノの練習では、インターネットの恩恵に与ることができます。動画サイトで指遣いが判る様に鍵盤の上からの映像を撮影し、公開している奏者が多数存在します。楽譜を見て練習し、ちょっと判らないな、と感じたら、動画を見ることで、解決できます。非常に合理的です。練習したい曲がクラシックなら、ほとんどの曲はわざわざCDを買ったり、レンタルしたり、ダウンロードしなくても聴くことが可能です。そうなると、ピアノ教室に通わなくとも、充分に練習は出来ますし、様々な曲を弾けるようになれます。そうなると、ピアノの先生の存在意義とは?と疑問に感じますが、むしろ、こういう時代だからこそ、求められている職業ではないのかな、とも思うのです。ピアノの先生から教わる事は、「弾けるようになる」というよりももっと崇高な、部分ではないでしょうか。他でいうと、花道や書道などの「道」を学ぶことと同義であると言えます。そこで学ぶのは「躾」であったり「立ち居振る舞い」であったり「心持ち」のような、いわば「人としての在り方」みたいなものだと思います。そういう稽古を受けている人々は、品があるように見受けられます。もちろん、環境によるのでしょうけれど、貧しくとも気品に溢れた人を大勢見てきました。僕はもう何かのお稽古に通う事はないでしょうけれど、様々な面でゆとりができたら、書道教室に行ってみたいな、とおぼろげに望みを抱きました。書道を選択した理由は、字が下手だからです。下手だからこそ、とんでもない作品が産まれるのではないか、と勝手に都合よく想像しています。それとも下手の横好きでしょうか。いえいえ、好きではありません。字を書くことは苦痛です。しかし、字で「表現」するのは、苦痛ではないはず。長女が書初めをするかもしれませんから、その時に一緒に何か書いてみましょう。言葉はその時のインスピレーションで決めます。今から決めていては、何も楽しくありません。今年の漢字があちらこちらで発表されているようですが、各々で好きに決めたら良いことです。時折、感情を逆なでするような表現をインターネット上で見かけますが、無視をすることが一番の得策です。相手にしていてはキリがありません。グッと堪えて、深呼吸をすれば、その場をやり過ごせることでしょう。相手は誰か知らないのですから、いくら言っても聴く耳を持たないのです。炎上を目的としている発言が非常に多くて、それを「商売」にしている連中がいるという事を、頭の片隅にいれておきましょう。

    部屋から臨む朝の光景