• 哲学?

    非連続的なフラッシュカード

    大人になってから、フラッシュカードという言葉を聞くようになり、はて、何だろうか、と思った事があります。なんて事はありません。映像による記憶の促進みたいな作業ですね。幼い頃から、詰め込み教育を行わなければならないほど、日本にはゆとりがないのかな、と心配になります。ゆとり教育という言葉が一時期もてはやされていましたが、すぐに落ちましたね。今では、「ゆとり」という言葉だけで、ネガティブに捉えられる風潮があります。言葉が悪いのではなく、「ゆとり教育」のシステムに問題があったのではないでしょうか。授業のコマを減らす事で、つまり休息の時間(遊びの時間?)が増えます。その時間が、どのように使われていたか、という素朴な問いが生まれますが、ほとんどの学生は、自分の好きな事をして過ごしていたでしょう。それは、ほとんどが遊びであるというのは容易に想像がつきます。ですから、全体的な学力が落ちる、というのは避けられない現象だといえます。あと、教育の仕方というか、子供たちがどうやったら学問に興味を持つか、という点が重要であると思われますが、それは難しい問題です。先生がいくら熱心に学問を説いても、受け手側が話を聞き入れていなければ、何も残らなくなってしまいます。中学、高校と進めば、その学問に対する姿勢の個人差は、顕著に表れてくることでしょう。幼い頃は、誰もが新しい事に興味を持ち、常に学ぶ姿勢をしています。成長するに従って、ある程度の知識を得て、興味の対象が限定されていくような傾向にあります。「選択と集中」というのでしょうか。各々の好きな事、或いは得意な事を見つけて、それに注力しますが、その部分は、教育如何ではなくて、人間社会へ適応するための準備とも言えます。つまり、労働の準備をしているように見えるのです。それによって、専門性が生まれ、産業に、経済に、社会に寄与することができるからです。話が逸れましたが、結局、学力向上、という言葉の本質が何か、という定義の問題かもしれませんが、ただ(国際レベルでの)テストの点数が下がった、というだけで、判断できる部分ではないのではないか、という事です。その時代背景、生活環境を含めて、総合的に判断してはいかがか、と個人的には思います。今の日本の状態を見ると、子供たちは幼児の頃からスマートフォンで遊び始め、ショッピングセンタに行けば沢山の商品があって選り取り見取りで、食べ物もグルメやアレルギーに対応して、好きなものが選べます。この豊かな生活で、向上心を生まれさせる、というのは、なかなか難しいように感じます。ですから、まだまだ未開の領域や、未解の問題があり、研究されているのですから、そういう問題を見つけて、取り組めるような、全体的なシステムがあると良いのではないかと。例えば、授業で一つの未解決の問題を提示し、一人一人の意見を聞く、或いは文章で提出させてみる、という試みがどの分野でも行われたら、新たな発見が飛躍的に増えそうです(希望的観測)。これは、小中高を問わず行うと面白いでしょうし、分野を限定的にするべきではありません。これによって、個人の特性も見えてくると思います。まあ、僕がこんな所で発言しても、どうにもなりませんし、既にどなたかが思いついて提案はしていると想像します。或いは、既に実施しているのかもしれません。インターネットを教育に持ち込む際、どういう使い方をすると、全体的な学力向上に繋がるのか、また、エネルギィの節約につながるのか。いつになったら学生が「学校」に登校しなくてもよくなるのか、非常に興味を持っていますが、生きている間は、変わらないだろうな、と予想しています。その間、「学校」でのいじめも変わらないことでしょう。どうか、いじめによって子供たちが命を落とすような悲しいニュースが流れなくなるよう、祈るばかりです(ニュースを流すな、という意味ではありません)。話は戻りますが、フラッシュカードって、昔でいうと単語帳がそうなのでしょうね。僕は、確か英語の勉強で一度使った記憶がありますが、1回で挫折しました。何故なら、単語帳の表裏に、手書きで写すのがとても面倒で、非効率的だ、と感じたからです。そして、「勉強しない」という効率的な(?)方法を選択しました。それが、現在では後悔という具体的な成果物になってしまい、一人寂しく涙するアラフォーの男の話でした。

    出会いを備えた図書館