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煩悩の数だけドラマがある
煩悩とは、仏教の教義の一で、一般的には108個あるとされていますが、宗派によって違うみたいです。除夜の鐘も108回と聞いたことがありますが、一度も数えたことはありません。1月1日になったら(つまり深夜0時以降)鳴り始めるものでしたっけ?若いころは聞いた記憶がありますが、現在の生活スタイルなら、鐘が鳴る頃には眠りについています。そういえば、今年は昼間に聞こえた気がしました。気になったので少しググりました。近所からクレームがあり、昼間に変更したお寺さんが多数あるみたいですね。まぁ、そうなりますよね。常識で考えれば、当然の成り行きだと思われます。この常識という言葉は非常に曖昧でして、基準が無いので困りものですね。つまり、それは常識だ、といった人の基準でしか尺度がありません。他人からは全く理解できない場合もあります。たとえば、ご飯を食べるときに、手を合わせて、「いただきます」というスタイルが定着していると思いますが、キリスト教の方々は、お祈りをしてから食べます。小学校では、前者の作法を行っていました。僕は、実は後者の作法を家では習ったので、最初はものすごく新鮮に感じた記憶があります。もしかしたら、幼稚園の記憶かもしれません。家以外で、みんなとご飯を食べるときは、何も考えずに、周りに合わせていました。子供ながら、空気をよんでいたのですね。こういった場合、基準となるのは多数派、つまり多数決で基準が決まる、というのが一般的な考え方でしょうか。常識という言葉を使うときは、他者から見た場合に、そうとは限らない、という事を念頭に置くべきだと思います。あまり使いたくない言葉ですね。穏便に事を運びたいものです。あぁ、しかし、僕は子供に靴をそろえるように、扉は開けたら閉めるように、くらいは言います。それくらいは常識だろう、という判断の下ですから。宿題をやりなさい、は言いませんね。このあたりもやはり個人の考え方になってきますね。難しい。話を戻しましょう。煩悩の数は108個だと言われていますが、じゃあ、タイトルのドラマというのは、108個しか無いのか、と思われたかもしれません。煩悩とは、一人ひとりにあるものですよね。ですから、世界人口76憶人×108個のドラマがある、という意味です。電卓で計算しようと思いましたが、止めました。合計を出してもあまり意味のない数値です。例えば、煩悩の中で最も分かりやすいのは、貪欲(とんよく)でしょうか。この欲は、一人ひとり求めるものが違うものです。仮に他者と同じものを求めたとしても、お互いの環境が違います。ですから、同じドラマはありません。現実という映像を見ている人が、そのドラマの主人公なのです。他はみんな脇役です。もしかしたら、人間はあなた一人かもしれません。冗談はさておき、煩悩は決して悪いものだとは思いません。誰しも一度は向き合う苦難だと思います。その苦しさこそが「生」なのです。生きるという事は、非常にエネルギィを必要とします。そのエネルギィの源とは、地球から与えられたものです。恩恵にあずかっているのです。まずは、この事実を認識し、森羅万象に感謝する気持ちを持ちたいものです。そうすれば、煩悩と上手に向き合っていけるのではないでしょうか。今日はなんか重い話になってしまいましたね。ここで、少しライトなお話に変えましょう。僕は、非常に物忘れが激しいのです。例えば、昨日書いたブログの内容は、9割は忘れています。一昨日のは完全に忘れています。自分が何を書いたのか、全く思い出せません。あまりのひどさに、思わず笑ってしまう出来事がありました。会社の一部で、工事をしているのですが、その場所は、毎日、絶対に通っていくルートなのです。そこ以外にも通れるルートはあるのですが、基本的には違うところは通りません。その工事をしている場所は、通行禁止になっているので、その手前のT字の部分を直進すると、他のルートを通れるわけですが、T字の部分を曲がってからでないと、通行禁止の看板は見えないのです。最初に気づいたのは、火曜日の朝。職場に行くときに、T字の角を曲がったら、通行禁止になっていたので、「あぁ、工事か」と気づいたわけです。ところが、水曜日、木曜日と毎朝、同じルートを通って、曲がった後に、「あぁ、工事中だった」と思い出したのです。木曜日の時点で、なんと学習能力がない人間なのか、とさすがに自虐したのですが、驚くなかれ。なんと、今日も同じミスをしました。いやぁ、もう、呆れるを通り越して、笑うしかなかったですね。いったいどんなメモリを積んでいるのでしょうか。揮発性メモリだけで構成されているのかもしれません。僕にはもっと、フラッシュメモリが必要です。おっと、これも煩悩ですね。さて、よい週末を迎えるための心の準備はすでにできております。平穏でありますように。
川に囲まれたお寺