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鬱積する有機的な感情の続き
いきなり昨日の続きになりますが、議論が好きな人というのは、自分の話を聞いて欲しい、という願望が何処かにあるのではないでしょうか。少なくとも、今までの(数少ない)観察から、そのような傾向が見られます。良い意味では、意見に自信を持っていると言えます。その点は、僕にはない部分だなと感じています。自分の意見なんて、流動的だし、誤りを人に指摘されれば、「ああ、そうか、間違っていたのか」と訂正するので、あまり自身をもって発言することはしないようにしています。あくまで考えを述べる、という意味で「○○と思います」とか「○○という可能性があります」等をくっつけて言います。断定的な言い方は、極力避けたいところです。ですから、議論になれば、僕はすぐに論破されます。仮に、相手が間違っていると思われる事を言っても、「ああ、そうやって考えるのか」と受け止めて、それ以上のやり取りは控えます。理由は、続けてもストレスが溜まるだけという経験則からの判断です。こういうストレスが蓄積すると、何処かで爆発しそうですから、理性が働くうちに、回避する必要があります。他の人はどのように溜めないようにしているのかを見ていると、その都度、感情を爆発させ、怒鳴ったり、叫んだりすることでスッキリする人や、溜めるだけ溜めて、一気に爆発させる人や、逃避する人がいるようです。僕は逃避タイプですね。このストレスは、ワーキングホリディでオーストラリアに暮らしていた時は、ほとんどありませんでした。何故なら、日本で暮らすよりも人間関係がシンプルであること、行動範囲もシンプルであること、言葉があまり理解できないから、フランクな会話で済むこと、といった理由が挙げられます。今なら、花粉症がないこともストレス軽減の一つですね。人間関係がシンプルであるという点に関して、ずっと住んでいれば、次第に交友が深まり、複雑になる可能性はありますが、基本的に、日本はコミュニティの嵐で、集団行動が求められる風潮がありますので、これに比べれば、交友関係なんて、屁の河童、お茶の子さいさいです。交友関係は、お互いが都合の良い時に会うだけですから、嫌でも顔を合わせる必要がある、半強制的なコミュニティとは訳が違います。おかしな日本語ですね。ボランティア精神を否定するつもりはありませんが、やりたい人だけでやってください、という役割が日本には多すぎます。そもそも、必要かどうかの議論もなく、ただ、習慣というか、風潮というか、昔から続いているから、という「伝統」をかざして、続けようとしているように見えます。そういう活動に加わる必要がある環境に居なければ、問題はないのですが、今はまだ無理ですから、将来的には、無縁の場所に行きたいですね。それこそ、オーストラリアは、候補の一つであります。現在の環境において、様々な要因が複雑に絡み合い、その摩擦ともいえるものがストレスとなり、個々に蓄積されていき、その結果、部分的な破壊が起きます。そこからまた別の場所で破壊が起きる。その連鎖により、元の集合体としての強度を失っていきます。できるだけ、摩擦が生じないような工夫が、今の生活に求められているのに、さらにコミュニティに頼ろうとする動きがあります。それが、人の弱みに付け込むようなものであることを、例え指摘しても、「個」の意見として、軽く流されるだけです。自分の身は、自分で護らなければならない、という事を思い知らされる今日この頃です。さて、新しい年度になり、心機一転、と言いたいところですが、差し当って、大きな変化は生まれていません。周りが年齢を重ねた事が、変化と言えば変化ですが自分も同じように年をとっていきます。あまり大きな変化がないほうが、ストレスは少ないので、現状は決して悪くないのだな、と言えます。感謝の気持ちを忘れずに、謙虚になれるように、自戒の念を込めて。
のんびりといきましょう Part2