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    三国志燃え尽き症候群

    3日間にわたり、三国志について書いていますから、読むのは飽きる事でしょう。仮に三国志が大好きでも、捉え方が異なれば、同様につまらないと感じることでしょう。これから読もうとしている人にとってはネタバレとなるので、ごめんなさいね。昨日は三顧の礼辺りの話で終わりましたね。諸葛亮が蜀に加わった事で、三国志がようやく動き出した、という感じがします。もちろん、黄巾の乱や、もう少し古代から遡ると、より一層深い味わいが楽しめる事でしょう。問題は、だれがそれを書くのか、或いは作るのか、ということです。他の文献を当たれば良いだけでしょうか・・・諸葛亮は、兵法に明るいだけではなくて、多くの武器や運搬器具も開発しましたね。その戦いに合わせて準備をして、臨んでいました。武器であれば、連弩(開発というよりは改良版)、地雷(導火線を利用したとされる)、からくり木獣などです。連弩は、矢を一度に、沢山射ることが可能です。仕組みは、普通の弓とそれほど変わりはありません。矢を弓に合わせ、弓を引いて、離すというだけです。しかし、当時は重宝したことでしょう。なんせ、10倍の矢が飛ぶわけですから。それを二人掛りで行うにしても、5倍の量の矢が放たれることになります。城壁にこの連弩が隙間なく並んで配置され、一度に打たれたら、たまったものではありませんね。地雷やからくり木獣は、南蛮(蜀の南部の異民族が住む地域)攻略に使われました。先ずは地雷ですね。藤甲軍という、水に浮かび、刃物を通さない(藤で作られた)鎧を纏った部隊に対峙したのですが、あの五虎大将軍、趙雲子龍が敵わずに退却したほどのやっかいな相手です。この鎧は、油に浸けて、乾かすという工程を繰り返すことで、浮力と硬度を得たそうですが、それを知った孔明は、「それなら火に弱いだろう」と考えたのでしょう。ある谷底に地雷を敷き詰め、その上を乾いた藁で覆い、準備を整えました。そして、謀を持って、藤甲軍をその谷底まで呼び寄せ、出入り口をふさぎ、谷の上から火の点いた松明を投げ入れたのです。その火が藁に着火し、火の手があがり、地雷がさらに反応して火炎地獄となり、油がしみ込んだ鎧を纏った藤甲軍は成すすべもなく、多くの兵士が焼かれ死にました。この凄惨な光景を見た諸葛亮は、「なんとむごいことか。」と自身の取った方法が過ちであった、と嘆きました。この辺りは赤壁の戦いで曹操軍を火計で壊滅させた時とは違う人間像が描かれています。年齢を重ねたゆえでしょうか。いえ、それとも同じ「蜀」の民であるがゆえでしょうか。真意のほどは測りかねますが、こういう戦いに勝利したあとでも、自身の用いた計略について、客観的に判断し、時に涙する、そんな諸葛亮がとても素晴らしいと感じました。さて、もう一つのからくり木獣は、猛獣使いの部族たちと対峙したときに活躍しました。というか、その状況を見越して、予め製作し、遠征に持ってきていたことに、驚きました。当の本人は「そういう部族がいると書物で読んだことがある」と、さらっと言ってのけるのですが、だからといって、そこまで大掛かりな装置をわざわざ考案して実践に用いるなんて、それは劉備が惚れ込む人物だと納得できます。それでそのからくり木獣は、虎の形をしており、火を噴くことができますし、頑丈に造られているので、猛獣(像、ライオン、虎など)の攻撃はもちろん、敵兵の弓からも守ってくれますし、剣も通しません(通るかもしれませんが、その前に火を噴く木獣を見て、恐れをなして逃げたことでしょう)。敵わないと気付いて逃げ出したところを、一斉に攻撃し、討取ったという話です。ちなみに猛獣は、腹を空かせた状態で檻に入れられ、戦い場で放たれるのですが、それはもう恐ろしいことでしょう。たとえ武器を持っていても、像が走って向かってきたら、逃げ出すに決まっています(僕なら、の話です)。からくり木獣は、どうやって動くのかというと、兵士が何人も入って、人力で動かします。獅子舞をもっと大きく丈夫にしたイメージでしょうか。今となっては滑稽かもしれませんが、当時それは恐ろしい光景だったことでしょう。それだけ情報が乏しい時代だったからです。その中で、諸葛亮の持つ情報というのは、随一だったのかもしれません。次に、運搬用の器具ということで、木牛流馬を開発しました。今でいうところの手押し一輪車です。見た目は牛を模しており、胴体部分が荷台となります。車輪は、一輪ですから、狭い崖などを通る時に、落下の恐れも低減し、なんといっても荷物を運ばせるための馬や牛などの食料が不要になったことが大きいです。この木牛はちょっとした仕掛けがあり、牛の口の中に手を突っ込み、「舌」を横に回すと、タイヤがロックして動かなくなります。この仕組みを利用して、敵兵に襲われたら、ロックして逃げることで、相手は運びたくてもその木牛では運搬が出来ません。ロック解除の方法を知っていれば良いのですが、誰も知らないはずです。蜀軍はこれを利用して、遠征の兵糧を賄っていたのです。いやあ、面白いですね。まだ続けますか?もういい?そうですか、ではまた来週くらいに続きをかきます。これはちょっと譲れない部分ですね。三国志は書いておきたいです。需要はないとは思いますが。