• 雑談

    風刺禍伝(花)

    さて、本日は昨日書きそびれた、花についてです。花に関する知識は皆無であることは既に書きましたが、花をどのように見るか、という事について考えていこうと思います。よろしくお願いいたします。花が咲いている植物を見かけると、ついつい花に目を奪われてしまい、その花がどのように咲いているのか、見逃してしまいます。プランタに咲いているとか、道端に咲いているとか、壁に咲いているとか、そういう話ではありません。たいていの花は、おそらく枝或いは茎に咲きます。その枝や茎は、根から分れて伸びています。その根は、土中に埋まり、栄養を吸収し、供給しています。このルートを、ついつい見逃してしまう、という事です。花の美しさは人々の目を引き留めますが、それを実現しているのは、他でもない根の部分です。それが無ければ、花は生まれないのですから。これは、人間が祖先に感謝するのと同じ事です。自分の意思は、祖先がいなければ、存在していないのです。昨日のサクラの写真を見て、そんな事を思いました。物事を表面的に捉える事は、決して悪い事ではないと思います。その方が都合の良い場合もあることでしょう。しかし、それと同時に、その裏側も同時に見据えていくと、きっとより深い捉え方が可能になり、新たな発見や発想を得られるのではないかと思います。花見や紅葉狩りといったイベントがありますが、花も葉も散り、枝だけとなった樹(冬枯れと言うのですか)を見て楽しむ風習がないのは何故でしょう。むしろ、その冬枯れを見て、どんな花が咲くかを想像したり、葉が青々と茂る様子をイメージして絵を描いたり、といった行動が人間らしいと言えます。花見でシートをそこら中に広げて、昼間からお酒を呑んで騒いで、いつ花を観ているのでしょう。紅葉狩りは、もう少し落ち着いた雰囲気ですが、観光バスが列を成して山奥を走る様子は、やや騒々しいものです。紅葉を楽しむなら、やや離れた場所からその樹々を眺めるのがベターですが、その樹々の根元に入っては、せっかくの紅葉は楽しめないのではないですか?旅行でも、例えば世界遺産にいって、自分が映った写真を撮影したりしますが、その場所に行った、という記録を残すのみで、その場所がどういう意味を持っているのか、という部分を記憶に残さない人が(僕も含めて)多いようです。これらを表面的なモノの見方であるとすると、何が本質的であるかが見えてきます。どうせ残すなら、自分の記憶の中に、美しく残したいものです。それは、決して現実の中にあるとは限らないのです。想像から産まれる美しさもあることでしょう。という訳で、冬枯れの樹々からは、多くのインスピレーションが与えられる、と期待して、今年の冬を待つことにしましょう。やや鼻につく物言いでしたね。テーマが花でしたから、ついつい。あ、「はな」違いでしたか・・・。

    足を止めて見上げる