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知識は感化によって広がり思想は鈍化によって鋭くなる
幼い頃はもちろん、30代前半までは、何かと人の影響を受けていました。様々な人と出会い、話し、考え方を自分と比較して、できるだけ吸収してきたように思います。今でこそ、コミュニケーションが苦手で、接することを極力控えていますが、その頃は、積極的にコミュニケーションを取ろうとしていました。ある程度、打算的な部分もありました。この人と繋がっていれば、良い情報が得られそうだ、と感じれば、多少の事には目を瞑り、関係が途切れないように注意を払っていたように記憶しています。子供の頃(小学生まで)は、何も考えずに、ただ誰かと一緒に遊ぶことばかりを考えていました。予定が入ると、嬉しくて、待ち遠しくなるのです。何をするか、具体的な事は何一つ決まっていないのですが、ただ「一緒に遊ぶ」という響きに満足感を覚えていたように思えます。自分の事ですが、当時の心境ははっきりと覚えていません。勉強は嫌いだったのは確かです。いや、好きな頃もありましたね。小学校低学年は、比較的真面目に取り組んでいたのではないでしょうか。自宅で、漢字ドリルをひたすら学習した記憶があります。父がそれを見て、「頑張っているね」と言ってくれた事も覚えています。これはもう、遠いお話。(恐らく参観日だと思いますが)授業風景の写真を見返すと、黒板に背を向けているので、先生から見たら、とても「真面目な生徒だ」とは、お世辞にも言えなかった事でしょう。落ち着きが無かったし、集中力も無かったし、遊びたいばっかりでした。女の子の遊びも積極的に参加しました。たとえば、リカちゃん人形ですね。年下の子が、おままごとをするのですが、はっきり言って、「なんて大人な遊びなのだろう」と感じていました。だって、普段の大人たちの会話を、そっくり真似したり、母親の仕事である家事を、自分より年下の女の子が、こなしたりしているのです。おままごとって、すごいな、と感じた事は忘れません。それからでしょうか、さすがにリカちゃん人形を持つことは抵抗があったので、ガンダムやキン肉マンというキャラクタのプラモデルや人形を手に入れて、おままごとをするようになったのです。多少、暴力的なシーンはありましたが、おままごとと言って、差し支えないと思います。一人で想像の世界を創り上げて、没頭するわけですが、その様子を家族に見られた時に、「恥ずかしいな」と思ったことがあります。何か秘密を知られてしまった、そんな心境でした。最初は、声を出さずに、心の中で(プラモデルや人形と)会話をするのですが、その内、没頭してテンションが上がってくると、ついつい大きな声で「どかーん!」とか言ってしまうのですね。いやぁ、幸せな時間だったと思います。それで、何の話だったかというと、感化ですね。物事をより多く知るには、それだけ、情報源が多岐に渡る方が有利であると考えられます。そして、素直な気持ちというか、先入観が無い状態で、情報に触れることで、効率よく吸収できると言えます。おままごとでいうと、食器を洗うスポンジに、洗剤を含ませるとき、油がスポンジに付着していると、泡立ちが良くありませんので、出来る限り、油はスポンジに付着しないように、キッチンペーパーで拭き取ったり、予備洗いをしたりして対処します。こんなリアルなおままごとは、滑稽ですね。今の自分は、どちらかと言えば鈍化している状態です。周囲に対して、反応をしないようにしています。それは、意識的にそうしているのですが、そうすることで、一つの物事を考察する時、より深く、よりシャープに考えることができるのです。おままごとをしている時の自分は、鈍化した状態と言えます。周りの情報をシャットアウトしているのです。親に叱られる時は、シャットダウンして、無の状態に近づきます。こうすることで、難を逃れようという浅はかな思考です。そうすると、余計に怒られることは実証済みなので、どうか良い子の皆さんは真似をしないように。これはあくまで僕の方法ですが。他の人はどうか知りませんが、情報を取り入れる時、その情報を自分の中で消化する時、というのは、別の人格というか、思考の状態として異なるのではないでしょうか。「そんな事を考える暇があったら、他の事をするよ」という意見は、ごもっともですし、尊重します。しかし、「考える時間」というのは、非常に人間らしい、理性的な行為であり、決して悪い状態ではないと思うのですが、いかがでしょうか。
そこで寝るのですか?