• 哲学?

    思考のひとり旅

    子供と話していると、質問をされることがあります。時には、「ぬぬ、これは由々しき事態だ」と思う事もあります。それほど、問の質が高いのかもしれません。返答に困る場合は、僕の単なる無知によるところもありますが、意外と、抽象的な問いかけが多いように観察されます。つまり、具体的な情報を求めている訳ではないのかな、と気づかされます。大人の会話は、かなり具体的な返答を求める場合が多く、その答えを得ることが安心につながる、というパターンが散見されます。抽象度の高い、或いは哲学的な問いかけは、一般的には敬遠されがちです。経営者や研究者は、経営やテーマの方向性を決める時に、抽象的な考え方をするのだと想像します(あくまでイメージです)が、その世界を僕はあまり知りませんから、狭い世間での観察ですが、かなり具体的な会話が多い事は明らかです。ということは、子供のほうが、抽象的な考え方が出来て、俯瞰している、と言えなくはないのかもしれません。発想力の衰えというのは、その辺りの違いなのかな、と考えさせられました。質問を受けた時に、あまり具体的な話をすると、子供は途中から聞かなくなります。曖昧な返答ですと、逆に「なぜ?なぜ?」と質問を掘り下げてきます。この食いつきの違いはなんだろう、というくらい温度差があります。もしかしたら、うちの子供たちだけかもしれないし、或いは僕の返答が悪いのかもしれませんけれど、傾向としてはそのような事象が顕著に現れます。なぜそんな事を考えたのか、という疑問を持たれるかもしれませんが、単純に「おいおい、パパの話を聞いてくれよ」と小心者の父親が傷心を覚え、対策を講じなければ「威厳ある父親」に昇進はできない、と危機感を抱いたからです(くだらないジョークで失礼しました)。会話をする以上、そして、何かを発信する以上、出来る限り精確に情報を伝達したい、という欲求(或いは願望)は誰にでもあるかと思いますが、受信側によって、かなり解釈が異なってきます。それを補うテクニックが、レトリックなのかもしれませんが、そんな勉強はしたことがありませんから、ひたすら言葉を紡ぐことになり、結局伝わらない、という状況が多々発生します。諦めても良いのですが、発信した以上、自分の発信方法に問題があったのではないか、と考える事も重要です。家の壁には、至る所に通信教育の張り紙があり、それには足し算や掛け算の覚え方として、無理矢理文章を作って、語呂合わせをしてあるのです。一つ紹介しましょう。「8+9=17」という計算式の上に「はち(8)と(+)くま(9)のじゅうなん(17)体操」と書いてあるのです。それを、一桁の足し算引き算について、様々なパターンで、しかもご丁寧にそれに合わせたイラストまで描かれています。いったい、何を教えようとしているのでしょうか。足し算と言う概念を教えたほうが、間違いなく応用が利くはずですが、それを単なる記憶方式で詰め込もうとしているのです。なんだかなあ、と首を45℃に傾げたくなりますが、傾げたところで解決はしません。少し血行が良くなるくらいの効果はあるでしょうか。子供は抽象的な考え方ができるはずです。であるならば、概念を教えたほうがそこから様々な発想を得て、賢くなっていくのではないのか、と思うのですが、いかがでしょうか?子供をあまりにも「子共扱い」しているような気がして、ままなりません。ぜひとも、ママの意見も聞きたいところですが、生憎、僕の精一杯の知識と表現力を以て伝えても、「そう?いいんじゃない?」で終わりそうな予感がするので、聞けずじまいなのでした。チャンチャン。

    未知連れ巡行