• 哲学?

    生きているから考えるのだ

    ときおり、生きるということについて、考えることがあります。「なぜ生きるのか」から始まり「生きる意味とは?」に変化して「我思う。故に我あり」というところに帰結します。生きるという事象に対して、理由を求めるという行為は、まことに人間らしいと言えます。その行為だけでも、崇高であることが伺えます。なぜなら、そこには理性があるからです。では、理性はどこから生まれてくるのか。これは、人類の歴史を紐解いていけばあるいは見つかるのかもしれませんが、はっきりと「ここだ」という時期は特定するのは難しいことでしょう。理性という言葉が定義されたのも、何時のことか、検索してもそれらしい情報は見つかりませんでしたが、文字を操るようになった頃には、間違いなく理性は働いていますね。言葉だけでは、ただ目の前にいる人物、あるいは声が届く範囲に対して伝わるだけであり、これは他の生物でも同様の伝達方法を扱っています。しかし、文字を扱う、ということは、その文字が遠く離れた人に伝わるという、未来を抽象化して書かれたものであることから、本能的な行動とは異なります。本能的な行動は、現在、つまり目の前の事象を具体的に捉えて、反応することになります。例えば、目の前に大好きなポテトチップスがあって、何も考えずに手を伸ばして食べたら、本能的な行動ですね。それを前にしても、自身の体調は良いのか、間食の時間として適切であるか、カロリィの摂取量はオーバーしないか、おふくろさんは元気か、などを勘案して判断し、不適合であれば、食べるのを控える、という行動が理性的であるといえます。ちなみに最後のジョークも、理性があればこその趣であり、それを伝えたときに、相手が微笑んでくれることを想像しながら考えるのですね。このように、理性というものは、過去や未来を抽象化し、その想像から、行動を判断する、という性質を持っていることが判ります。冒頭の「生について考える」という思考は、まさに、その理性によってもたらされるものなのですね。ですから、その意義を見つけることが本質ではなくて、「考える」という行為が、「生」の本質であると、僕は思います。よく、生きる意味は何か、という文句が頭を過ぎりますが、意味はないのでしょう。疑問を呈したことが、既に答えであり、自分の「生」がそこに存在しているのです。これが、「我思う。ゆえに我あり」に帰結するということであります。今日のブログは、なんだか頭から煙が出そうなくらい、思考がオーバーヒートしてしまいました。普段、あまり考えていないからですね・・・おかげで、早く眠れそうです。仕事の夢は見たくないですね。昨晩は、それで目が覚めましたから。本当に夢がない男だな、と実感してしまいます。せめて、ピアノが上手に弾けるようになる夢とか、世界が平和になる夢とか、海がきれいになる夢とかだったら、自分を大好きになれそうなのですけれど。

    単純化された人生の岐路