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得はバーゲンにあり 財はカードにあり
最近、子供たちは知恵をつけてきているので、なかなか奥様と僕の注意を受け付けようとしません。何回言っても無視をしたり、返事をしても動かなかったり、逆上したりと、青春まっただ中のような反応です(青春に対する情報は少ないのですが)。恐らく、彼女たちなりの考え方があって、奥様や僕が与える注意は、それに適合しないのでしょう。これは仕方ないことではあると思いますが、言葉の重みがないのではないか、と自責の念に駆られます。遺跡の粘土は掘ったことがありません。史跡の年度はすぐに忘れてしまいます。こういう(一般的にくだらないと言われそうな)ジョークを挟もうとすることに関して、自責を問うことはありません。面白いか否か、それは受け取る側の問題ですから、僕に責任はない、と考えています。しかし。子供たちの躾については、親に責任が伴ってきますから、駄目なことは駄目、と教えようと試みているのですが、なかなか思うように伝わることがありません。何回も同じことを繰り返し言うことで、少しは変化があるのかもしれませんが、正直、心折れることもあります。こういった問題で、解決策を模索しなければならないというのは、想像したこともありませんでした。そして、その策の一つとして、宗教の存在が浮かび上がってきました。これは自分でも以外でしたが、最近読んだ書籍に、それに関わる論理が書かれていました。宗教上の教え(教義というのでしょうか?)で共通していることは、おそらく道徳的な内容であると予想します。人が生きる上で必要な素養とも言える考え方を、教義から学ぶことができるようになっているのではないでしょうか。今の日本では、無宗教というカテゴライズの人が多くいるようで、僭越ながら僕もその一人です。幼少期に(家族で)教会に通っていた時期があったので、全くの無宗教ではないと言えますが、信仰というものを考えたときに、その限りではないと自分では思っています。ですから、客観的に見れば、無宗教であります。奥様は、実家が神道ですから、その道で生きてきたのですが、なぜか最近は、子供を連れて教会にちょこちょこ行っています。そうですね、月に1回ほどでしょうか。あの独特の雰囲気になんら気後れすることなく、堂々としていらっしゃるので、たいした人だな、と感心することしきり。このことに関して、僕は否定的な立場ではなくて、むしろ奥様に感謝している部分があります。それが、先程述べた教義に含まれる道徳的な部分の理解です。学校と自宅以外で道徳を学ぶことは、子供たちにとって決して悪いことではないでしょう。豊かな生活を過ごすためには、まずは豊かな心を育む必要があります。その豊かな心とは、良心であったり、人として歩む道を知ることであったりもします。仁とは人の心なり。義は人の路なり。と孟子先生は教えています。この仁義という言葉は最近あまり使われないのではないか、と予想しますが、この仁義こそ、人が人たる所以であり、それを学ぶのが、様々な「教義」にあるようです。ですから、キリスト教の「愛」について知ることは、良心を育て、聖書を読むことはその人の路を創ることでしょう。これは、他の宗教でも恐らく同じような学びがあるはずです。残念ながら、僕にはその礎石を築く環境があったのに、自ら放棄していたのです。子供たちには、自分と同じ過ちを繰り返さないようにしてもらいたい、という気持ちはありますが、強要するつもりはありません。ただ、少しでも間違った路に進んでいかないように、多くのことを経験して考えてほしいと切に願っています。
店主はネコ