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ハナ、メデル
昨日からまた写真を貼り付けています。一時的な、気分的な、申し訳程度の画像ですが、この花があまりにも独特の雰囲気を醸し出していたので、画像編集までして、その際どさを強調させようと試みた結果、夢見心地なフィルターを選択してしまい、やや迫力に欠けたような印象を拭うことができません。この花を見て最初に浮かんだ名称は「ベルフラワー」と「スズラン」でした。そして検索した結果、全く異なるものだと認識。自分の知識に驚かされました。知ったかぶりを自分にしてしまいました。いやあ、恥ずかしい限りです。そして、少しの間、この花の名前を探してみましたが、見つかりませんでした。きっと、珍しいハナなのでしょう。見たこともないハナですから。こうして、自分の探し方が悪いことを棚に上げて、植物のせいにしてしまうあたりが、人間の罪といいましょうか。誰もそんな事は言っていないと思いますが、念のため(どういうこと?)。検索した語句は「花 紫 タコみたい」が最初です。タコみたい、というのはお弁当に入っている、ウィンナーのアレです。そっくりですよね?この語句で見つからないであれば、僕は本望です。他には「花 紫色 春」と調べてみましたが、欲しい情報は見つかりませんでした。みなさんなら、どうやって調べますか?図鑑があれば、パラパラと捲っていけば、(見落とさなければ)その内見つかりますね。そういう探し方をネットでもすればよいのですが、こうした画像から固有名詞を検索するのは、なかなかどうして、難しいものですね。本気で知りたければ、1時間でも時間をかけて調べるのですが、5分もしないうちに止めたので、本当に知りたいと思っていなかったのでしょう。こうして、ちょっとした疑問の答えを、すぐに得ようとするクセがついてしまいました。これは、問題提起から、直接解答を得ようとする行為であり、その中間にある思考のプロセスが省かれています。合理的であることは間違いありませんが、「考える」というプロセスほど成長に繋がるものはありません。その部分を自ら手放してしまうのは勿体ないと思います。最近では、会話の途中でも、調べて答えを示してくれる人が増えましたが、果たしてコミュニケーションという側面から見た時に、どうなのでしょう。「あーでもないこーでもない」と想像力を働かせるのが、より思考の豊かさを生むのではないでしょうか。子供たちは、とても想像力豊かですが、それと同じことを大人もすれば良いと思います。社会で「合理性」を学ぶので、プライベートでも、ついつい物事を単純化しようとしてしまいますが、「愉しむ」という行為は、決して近道をする行為を指しているわけではありません。むしろ、逆のベクトルで「無駄」な行為だと言えます。「冗長」と言っても良いかと。それらを支えるのが、精神的なゆとりかもしれません。結局、そこか、という感じですが、僕の精神状態は常に「いっぱいいっぱい」ですから、こうして自戒の意も込めて、「ゆとり」を自分の心に植え付けるように、言葉にしています。おっ、珍しくオチがマトモでしたね(自分でいうか)。