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客観的な記憶と曖昧な記録
今日はおひなまつりですね。うちには、お内裏さまとお雛様だけ、飾られています。これは、義父母からいただきました。たしか、5万円以上でした。もう一つあるのですが、それは、吊り下げるもので、つるし雛というものですが、こちらは2万円ほど(5千円くらいかと思っていました。奥様から指摘があったので、修正しました)。娘が二人いるのですが、長女だけ人形を買ってもらってズルい、というのが、次女の言い分です。正統な意見ですし、的確な状況判断だといえます。しかし、相手が悪かったですね。父親は、そういうことに興味が無いのです。不憫に思った奥様が、次女にそのつるし雛を買ってあげたのです。それで満足したご様子。次女は見事に吊るしあげられた、とは言いませんね。えーっと、揚げ足を取られたわけでもなく、釣り上げられたわけでもなく、なんと言うのでしょうね、こういう時は。足をすくわれた、というほど、意表を突かれたわけではありませんし、やりこめられた、というほど譲歩した覚えはありません。明日にでも、少しボーっとしながら考えてみましょう。明日は休日ですからね。そうそう、明日は地域の子供会でお別れ会をするそうです。僕は参加しませんが、イベント好きな女性陣にはちょうど良いですね。僕は、小学校5年生の時に引っ越しをしたのですが、その時に行われたお別れ会で感極まって泣いていました。ずっとこの場所にいたかったのに、親の都合で引っ越すのは、なんて理不尽なんだろう、と子供心ながらに思ったのです。理不尽という言葉を知っていたわけではありませんが、そういうニュアンスの気持ちを抱いた、ということです。とはいえ、親に憎しみを抱いたわけではありません。ただ、受け入れられなかった。引っ越す直前の下校の日に、道端でうずくまってずっと泣いていたのを覚えています。別れたくない、もう会えないのかもしれない、そんな気持ちが胸の中を渦巻いていました。今でもそのシーンは鮮明に覚えています。他の人はどうか知りませんが、僕は、こういう感情的なシーンを思い出すと、涙が出てしまいます。感情移入というのでしょうか。今では、さすがにコントロールをすることを覚えましたが、ひと昔(10年くらい)前は、ダメでしたね。ただ、面白いことに、その自分が泣いてる場面を思い出すときは、客観的なシーンになっているのです。自分の事なので、自分の視界のイメージが、記憶に残っていそうなものですが、少し離れた場所から、うずくまっている自分を見ているのです。幽体離脱って、こういう事ですか。いえ、そうじゃないでしょう。映画や、テレビドラマのような場面として自分の事を捉えているということは、自分の何処かにカメラマンがいて、ここぞとばかりに出て行って、フィルムに収めるのですね。夢も時々、自分を見ている時があります。距離にして、およそ10mくらいでしょうか。絶妙な距離感だと思います。ただ、もう少し、楽しんでいる時の映像もフィルムに残してくれれば良いのですが。自分の事なんですから、もう少しコントロールできると便利ですね。
夕焼け(Perthにて)
さて、これは、サンセットです。西オーストラリアのパースという町の、スワン川で、2009年3月7日に撮影しました。写真よりさらに右手には、水上に特設スクリーンがあり、みんなで映画鑑賞をするのです。この日は「魔女の宅急便」が放映されました。空間を共有する、という事では映画館と変わりませんが、開放感が違いますね。外で映画を観るのは、悪くない、と思います。空のグラデーションが僕好みなのですが、日本とは色合いが少し違うように感じられます。写真中心からやや右下にハートの形が見えますが、これは仕掛け花火で、映画が始まる前に、点火され、観客を楽しませる、というハートウォーミングなアイテムです(失礼)。ここ最近は、映画を観ていませんが、観るなら、白黒時代のものが良いですね。シンプルで、人間味があり、撮影にさまざまな工夫がなされていたはずです。それを想像しながら観たいですね。最近では、簡単にデジタル処理ができますので、驚くような映像というのは、それほど無いような気がします。もちろん、ストーリィは、最近のものでも面白いのですが、映像作品として比較するなら、創造性豊かなのは、間違いなく昔のほうでしょう。何故なら、当時は様々なアイデアがあったでしょうし、表現も自由にできたはずです。自分の人生を映画にするなら、僕は間違いなく白黒にします。しかし、ものごとは、はっきりと白黒を付けないタイプなのです。ややこしいですね。