• 哲学?

    鬱積する有機的な感情

    人間は、というよりも、生物はそれぞれ、個性を持っています。ヒト以外でも、それは観察すると、判別することが可能だと思われます。中には、見た目が同じなので、分かり難い生物もいますが、予めマークをしておけば、あとは行動や振る舞いを比較する事で、見分けがつきます。人間は、ある程度理性的な行動を取るので、それぞれの考え方が振る舞いに大きく影響します。その考え方の違いが、個性となって表れていると言えます。時折、ファッションスタイルを個性的だと評価する時がありますが、その場合は、そのスタイルに至った発想が個性として評価されていると言えます。ただ単に、見た目だけを個性的と表現するのは、「没個性」と言っているようなものです。街中で、奇抜な恰好をした人を見かけますが、今までに見たことないようなスタイルであれば、「ああ、その発想は素晴らしい」と感じます。最近見た中では、ピンクのロングヘアで、白いフリフリが付いている、膝下10cmくらいのドレスを纏い、白いハイソックスに黒の底上げのパンプス?を履いて、これまた白いフリフリの付いた日傘を差して歩いている人がいました。顔は中性的で、どちらかは不明でした。中世的ではありません。男性の可能性が6割くらいでしょうか。コミケ(コミックマーケット)に行けば、そういうコスプレをした人が大勢いるらしいので、何ら違和感は無いのでしょうけど、街中では異彩を放っているように映ります。場所をおおまかにいうと、大阪駅付近の路上です。その時、連れが3人いたのですが、彼らはノーリアクションでした。僕は、とても興味津々だったので、つい、振り返って後姿を眺めてしまいました。そんなに興味が湧かないものなのか、と不思議でしたが、きっと彼らの評価の対象にはならなかったのでしょう。その辺りの違いも個性と言えます。男性の可能性が6割と言いましたが、そこには個人の希望的観測も含まれています。確認のしようがないのですが、しかし、性別は、そのファッションスタイルとは無関係です。その表現に至った発想が、僕は面白いと感じたのです。ただ、知り合いに会った時に、お互いどんなリアクションをするのだろう、と要らぬ心配をしてしまいます。その趣味を知っていれば、特に問題はないのでしょうが、そうでなければ、かなりの衝撃を受けることは間違いありません。仮に、その時に一緒だった連れが、街中をそのような奇抜な恰好で歩いているのを見かけた時、僕は何か友達の闇の部分を見てしまったような気持ちになり、記憶を封印することでしょう。さて、日常生活において、つい感情的になることは、誰でもあると想像します。最近、キレやすい日本人という印象が定着してきましたが、もともと、人間は感情を持って生きていますから、ある程度は仕方ないことだと思います。ただ、どうやって感情をコントロールするか、という点については、大昔から様々な方法で学習してきたはずです。現在でも、信仰における経典、学問の教典、古人の教訓などから、モラルや物事の考え方について学びます。それなのに、キレやすいと言われるのは何故でしょうか。一つはメディアのニュースから、様々な「キレる」事件を知ることが増えたため、「キレやすい人が大勢いる」と認識してしまうという理由が考えられます。現代は情報過多と言われますが、情報が多い事が問題ではなく、処理する側に問題があると考えられます。もちろん、一般家庭の夫婦喧嘩までを日替わりでニュースに流されれば、情報過多と声を大にして叫びますが、今くらいのレベルであれば、「品のないニュースだな」と思って終わりです。周囲を観察すると、ニュースに過敏に反応する人が、多いように見受けられます。一つ一つに対して、テレビ、或いはモニタの前で、個々にコメントを発しているような風景が思い浮かびますが、なんと律儀なのだろう、と感心します。それだけ、世間の出来事に対して僕は興味を持っていないという事なのですが、受け止め方は人それぞれ。それも個性なのだと感じる場面の一つであります。二つ目に、「ケンカをしなくなった」ということを挙げておきます。これは、殴り合いの取っ組み合いではなく、「口喧嘩」と言ったほうが良いかもしれません。仲良く過ごしていきたい、という気持ちから、他人との言い合い(議論)を恐れる風潮が出来上がっているように思われます。僕もその一人で、いちいち考え方の違いを話し合うのが面倒くさい、と考えているのですが、それは、言ってもきっと理解してもらえない、という悲観的な理由です。普通であれば、その辺りを相手に伝え、こういう人間がいますよ、と知ってもらうのでしょうけど、余りにも考え方が違い過ぎて、言うのも憚られます。そんな事はないですか?さて、長くなりましたので、続きは明日にします。

    のびりといきましょうか