哲学?
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左派右派があるなら前派後派もあるのか
時折見かける議論で、右派・左派・右翼・左翼・極右・極左・中庸・リベラルなどという単語を見かけます。まあ、社会問題や政治問題について議論がなされる時に、論者の立場を明確にしているのだと認識していますが。知識の浅い人間がこんなことを言うのもなんですが、それって重要な事なのでしょうか?ある団体を特定して右翼だとか左翼だとか言いますが、ではテーマ全てにおいて同様の立場を取り続けるのですか?という疑問が常に浮かびます。最近では、改憲、沖縄の米軍基地問題、LGBT、いじめ問題などはしょっちゅうニュースで見かけます。もちろんその他にも経済、教育、エネルギィ、環境、外交、安全保障といったカテゴリ別に、種々のテーマがあり、議論されているようです。こういった問題を取り上げて議論をする際、専門的なご意見番が存在しない状況で、加えて右派と左派、中庸のバランスが偏ると、感情的な言い合いが発生しやすく、聞いていても或いは読んでいても、堪えがたいモノがあります。その分野の研究者は専門ですから、当然テーマに対して最新の情報を持っている訳です。そういう方の意見があると、場が治まりやすくなるようです。しかし、専門家は断定的な、あるいは明言することは避け、可能性を客観的に述べるので、具体的な対策や方策を求める人たちにとってはもどかしいようですね。僕は、周りの(インターネット上のことです)人たちが本当に様々な意見を述べ、議論しているのを見ていると、ついつい引いてしまいます。それは、理論を持っていないからという致命的な弱点があるのも要因の一つですが、それよりも、相手を否定するような意見を述べる気にならない、という考えがあるからです。お互いがどう考えているかを述べて、それで終わりで良いのではないか、ということです。もちろん、質問があればするでしょうし、されれば答えるでしょう。しかし、「いや、それは違う」というようなやり取りをするエネルギィを持ち合わせていないのです。ポジティブに捉えれば、平和主義者なのですが、これは自称でもあります。議論によって平和が生れる、という論旨も見かけたことがあります。ほお、と思いましたが、それは条件として「お互いが常に冷静であれば」でしょうね。感情的に振舞うのであれば、争いに繋がるでしょうし、それは歴史を見れば明らかです。それでも人間は、感情をなかなか抑える事が難しいので、ついつい過ちを犯すのですね。これは僕も他人事ではありません。だからこそ、議論する場では慎重になってしまいますし、率先して発議することに二の足を踏んでしまいます。猫の足を踏んだことはありませんけれど、猫ふんじゃったという曲?は弾いたりします。豚足は好きではありません。珍味ですよね、あれって。ゼラチン質で食べにくかったという記憶があります。それはさておき、保守だとか革新だとか自由主義だとかありますが、議論をするうえで、相手に敬意を払って発言をしていただきたいものです。中には相手を「無知」呼ばわりする方も残念ながらいるようです。若者がそのような場に入りたいと思うでしょうか?未来を託す者たちに敬遠されると困るのは、どの世代の人間でしょうか?議論が悪い事だとは思いません。ただ、本質を見失わないようにしてほしい、という想いが募る今日この頃です。
ハンドルは左派?右派?