通勤

欄干の向こう側

東日本大震災から、7年が経ちました。避難者数は7万人以上とニュースに出ていました。一つの都市の人口と同じくらいです。昨年は、12万人となっていました。それだけ、広く、深く傷跡が残っているということですね。震災発生時は岐阜市に住んでいました。長い時間(2分間ほど)、微弱な横揺れがあったことを覚えています。停車中の車にいて、揺れを感じましたが、原因が判りませんでした。ずっと収まらないので、気分が悪くなり、外に出たら、揺れは収まり、気分も回復しました。その直後のニュースの映像は、衝撃というよりは、夢みたいでした。現実とあまりにも乖離している、そんな印象でした。震災後の6月くらいだったかと思いますが、仕事から帰宅する時に、自転車で金華橋という橋を渡っていました。時間は、20:00くらいだったでしょうか。周りは歩行者の姿はなく、自動車も数台くらいでした。ふと、前方を見つめると、橋の欄干(手すりのこと)の上に立つ人影が見えました。そこまでの距離は50mほどでしょうか。胸騒ぎがして、自転車を必死で漕ぎました。その間にも人影は動き、欄干の外側に移動していました。その人が、外側に移動を終えたときに、僕が到着し、あわてて「お願いです。こちら側にきてください。」と声を掛けました。若い女性でした。彼女は、無言で、動きません。もう一度、声を掛けました。「そこは危ないです。手を貸しますから、ゆっくり、手すりを超えて、こちらに来てください。」自分の声が震えているのが判りました。手をゆっくりと伸ばしました。女性は、無言のままです。どうしたら良いのか判らず、とにかく、目を離さないように、声を掛けました。「さあ、掴まってください。」しばらくの沈黙。彼女の表情はうつろでした。焦点は合わず、こちらの声が聞こえているのかも判りません。それでも、待っていると、ゆっくりと、手を掴んでくれました。「そうです。あとは、ゆっくり上って、こちらにきてください。」彼女は、黙って動き始めました。絶対に、手を離さないように、必死に、引っ張りました。決して重かったわけではありません。ただ、向こう側は、約10m下に大きな長良川が流れているのです。下手したら、二人とも落ちるというプレッシャーがありました。なんとか、手すりに乗り、こちら側に足を着いた時は、本当に安堵のため息がもれました。その瞬間、彼女は膝をつき、泣き始めました。僕は、なんと声をかけて良いのか判らず、しばらく待っていました。少ししたら、呼吸が落ち着いてきた様子だったので、「どちらからきましたか?」と聞くと、僕がこれから帰る方向を指さすので、「では、一緒に行きましょう。ついて行きます。」と伝えると、泣きながら立ち上がりました。一緒に歩き始めると、少し落ち着いてきたようで、それから少し会話をしました。そこで、彼女は東日本大震災で被災され、岐阜市の身内の家に来たことがわかりました。ただ、なぜ身投げしようとしたかは言いませんでした。理由については、触れないようにして、「今日は、その家でゆっくり休んでください。」とだけ伝えました。僕が何を言っても、彼女の癒しにはなれないと思いました。彼女の生活している建物に到着し、別れを告げると、「本当にありがとうございました。」と深々とお礼をしてくれました。僕は、正直、複雑な思いでした。この時は、これで良かったかもしれない。でも、翌日に同じ行動を彼女がとったら・・・そう考えると、何か、切なくなってきました。怖かったので、その日からしばらく、ニュースは見ないようにしました。その橋は、通勤路なので、通らないわけにはいきません。それから、彼女を見ることはありませんでした。震災という言葉を聞くと、彼女を思い出します。今頃、元気にしているだろうか、と。

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