みんな言われなくとも頑張っている
先日は敬老の日の出来事を書きましたが、国民の祝日の「国民」という部分が、やや不透明ではありませんか?だって、サービス業は、基本的に祝日が「稼ぎ時」になるわけで、そこで働く「国民」は休むことができないのです。僕はサービス業を経験していますが、その時は特に祝日だから休みたい、という気持ちはありませんでした。ただ、年中無休だったので、年末年始も関係のない生活となり、休日のありがたさを実感することはありませんでした。その頃は19~23歳くらいだったので、まぁ、元気だったのでしょう。交代勤務もありましたし、ほぼ徹夜の日もありましたが、何とか乗り切ってきました。仕事が、というか職場が楽しいという感覚が、今思えばあったのかもしれません。最近では、そんな負荷を掛けた生活はとても許容できません。それに、その頃に比べて他人と距離を置くようになりましたから、職場が楽しい、という気持ちは生まれません。他人との距離というよりは、他人に期待をしないこと、と言った方が的確です。依存しない、という意味とはまた異なります。依存はしています。それは、僕には苦手な部分があり、そこは他人に任せた方が合理的だからです。これは、分業という仕組みそのものですね。期待をしないというのは、例えば宙ぶらりんな仕事がある場合、誰がやるのか?となるのですが、その打ち合わせがなされない、という状況です。その「誰が」の中に僕がいれば、「ああ、自分でやったほうが良いのかな」と思い、一応手を付けます。他の人が行動を起こす素振りを見せてくれれば良いのですが、なかなかお目にかかる事はありません。皆さん、面倒くさいのでしょうね。僕も同感ですが、仕事である以上、何らかのリアクションはしないといけないな、という申し訳程度に考えています。面倒な社員ですね。この考え方は完全に会社に対する甘えですが、僕なりの努力はしているつもりですから、大目に見てもらいましょう(開き直った?)。何度か書いてきましたが、この「期待をしない」というのは、愛情の一つであると僕は考えています。というと、理解に苦しむ人が大勢いるとおもうのですが、逆に考えれば分かり易いかと。期待をするという事は、相手に求める行為であり、それはストレスを与える事と同義です。ですから、愛情のつもりで「期待」してしまうと、相手に負荷を与えてしまい、結果、自虐になる、というものです。この点、世間的には受け入れられないでしょうけれど、譲れない部分でもあります。それでは「頑張れ」と応援することは愛情ではないのか、という指摘がありそうですが、それは利害関係で表せるかもしれませんね。競馬に行き、レースを見るとしましょう。馬券を買って、予想が的中しそうになると、その馬(或いは騎手)を応援したくなりますね?これは愛情とは言えません。しかし、ただレースを見ながら「頑張れ」と言うのは、一種の愛情といえるのではないでしょうか。分かり難い例えになってしまいましたが、競馬が出てくる時点で前途多難な喩えであることは薄々感じていました。しかし、そこはこれを読んでいる人の愛情によって賄われるべき問題であって、僕がどーのこーの・・・(以下略)
