哲学?

あっちもこっちも にっちもさっちも

模様替えをしたら、子供達は自分たちの部屋で遊ぶようになったので、リビングや寝室(和室)にオモチャが散乱することが無くなりました。まだ、1日しか過ぎていませんが。勉強嫌いの長女に、僕が使っていた机をあげたら、なんと、机に向かって時間を過ごす時間が増えたではありませんか。まだ1日しか過ぎていませんが。この机は、奥様が子供の頃に使っていたもので、30年以上前のものです。奥様の意思が、僕に継がれ、子供達へと伝わっていったのでしょうか。僕に継がれ、と書くと、奥様が不在のように思われるかもしれませんが、完全なる誤解です。元気いっぱいに、あちらこちらと動き回っております。落ち着きがない、とは僕の口からは言えませんが、さまざまな感情をできる限り抑えて表現すると、そうなります。結婚する前、奥様はご自身でADHD(注意欠陥/多動性障害)ではないか、とおっしゃっていた記憶がありますが、少なくとも、僕はADHDの症状にあてはまる部分があります。とくに、注意欠陥は、交通事故で自動車にぶつかった時がまさにそうでした。ちゃんと左右の確認をすれば、防ぐことができた事故です。多動性障害についても、僕は非常に集中力が無いと自覚しています。これは、(アラフォーにして)比較的最近気づいた事なのですが、以前までは、「集中しなきゃ」と自分に言い聞かせて取り組んだりしていました。そうすることで、何とか、一つの作業を継続して行う事ができたような気がしていました。しかし、ある作家のエッセイを読んでいるうちに、自分の考え方が根本的に間違っているのではないか、という考えに至り、少し、自分を見つめなおす時間を作りました。やりたい事は、いくらでもあるのです。しかし、いざそれを始めると、30分ほどで飽きてくるのです。その時、無理にでも続けるか、他の事にシフトするか、という選択をする事になるのですが、以前であれば、前者です。無理に続けて、疲れてしまい、挙句の果てに、もうやりたくない、となってしまいます。最近では、自分に意識的に「無理をするな、慌てるな、飽きたら別の事をしなさい」と、言い聞かせて事を進めております。そうすることで、集中する必要性も排除できますし、飽きがこないので、続ける動機が生まれたように感じます。他の人がどうなのかは存じませんが、少なくとも、一つの事に集中して作業を行う人は、結構いるようですね。職人さんや、画家、作曲家などのアーティスト系(?)の作業をする人や、会社の同僚で、パチンコを(お金があれば)1日中やる人たちもいます。ゲームをずっとやれる人もそうだし、やはり、あっちもこっちも手を出す人は少数派なのかもしれません。しかし、それで(自分の生活の)全体が上手く回っているのであれば、次から次へとやる事を替えていくのは問題ないと思います。しかし、多動性といっても僕と奥様ではタイプが異なります。彼女はあっちもこっちも手を出し、作業を同時進行で進めるタイプです。僕は、同時進行は出来ませんが、一つ一つ、短い区切りで回すタイプです。最終的なアウトプットは、それほど変わらないことでしょう。ただ、やり方が違うというだけです。こういった作業のやり方に対して、外野からあーでもない、こうでもないと言われるのはものすごく馬の耳に念仏なのですが、ありがたく「参考になります」とお礼を言うように心がけています。事実、参考になる時もありますし。他の人の考えを知る事ができれば、新しい発想につながる可能性もあるわけです。しかし、自分からは、「こうやった方がいいよ」とは、なるべく言わないようにしています。その人にあった方法があるわけですし、余計なお世話であることの方が多いと予想されます。奥様には、もちろん、細心の注意を払って、出来る限りソフトに、想いはハードに、出来る限りの知恵をしぼって伝えるようにしています。それが愛か、と問われれば、それを問わない事が愛だ、と答えるでしょう。僕が奥様に対して表現する「愛」を評価するのは、彼女であり、それは結果として「愛だ」と言えるものです。ですから、僕が愛かどうか、判断することはできないのです。「こんなに愛情を注いでいるのに分かってもらえない」と言う場面があるかと思いますが、それは愛情ではなく、「欲」或いは「願望」を注いでいるのです。愛情に見返りはありません。それだけははっきりとここに記しておきたいと思います。さて、結局話が散らかってしまいましたが、このブログも、1日の記事を3回くらいに分けて書いています。多い時は、5回以上、途中で他事を始めたりします。そうやって離脱して、他事をすることで、また冷静に文章を書くことができるようです。他人から見れば、落ち着きがないように映るでしょうが、結果的には、この方法は(僕にとって)合理的なのです。手を止める時間は、ロスになりますからね。

どれにしようかしら